愛し君に花の名を捧ぐ
 自分の手で直した宮は、思いのほか居心地が良い。

 周囲の木立や小鳥のさえずりはアザロフの山を思い出させるし、滅多に人が訪れることがないので好奇の視線に晒されることもなかった。だが、逆をいえば、世間から隔離されているような閉塞感に襲われる。

 それに加えて、仕えている侍女たちの態度も、リーリュアの気鬱が増す手伝いをしていた。

 リーリュアのほうから話しかければきちんと答えてくれはするが、彼女たちから積極的に声をかけられることはほぼない。
 毎朝夕の身支度を調えるときでもどこかよそよそしく、特に髪を梳く際の手付きは、リーリュアにも緊張が伝わるくらいぎこちない。

それなのに、どこへ行くにもだれかしらが後ろからひっそりとついて回る。どうせなら、並んでおしゃべりでもしながら歩きたいのに、それは決してしない。

 彼女たちの仕事ぶりに不満があるわけではないが、たとえ主従の関係だとしても、もう少し親密にはなれないものだろうかと考えてしまうのだ。
 アザロフではそれが当然だったから――。

 この髪と瞳の色が原因だろうか。

 リーリュアはほんの少し短くなってしまった髪の毛先をくるくると指先に巻き付ける。

 壊れていた椅子を修復しているときに、誤って使っていた膠が髪についてしまったのだ。侍女らはどうにかして落とそうとしたのだが、そんな面倒なことをするより切ってしまったほうが早いと言って、颯璉に毛先を揃えてもらった。

 その数日後。颯璉が書き物に使っている書道具が珍しくて、手元を覗き込んでいたときのこと。
 試してみるかと勧められたので、意気揚々と手にした筆を勢いよく硯の海に沈めたら、真っ黒な墨が跳ね顔に飛んだ。鏡を見たら、泣きぼくろのように黒い点が付いており、あと少しで眼に入るところだったと焦ったものだ。

 いままでリーリュアが使っていた筆記用具とはまったく異なり頼りなく曲がる筆先は扱いづらく、そうそうに書道を諦めることとなる出来事だった。

 故国とは異なることばかりで戸惑いが多い。
 
 お辞儀の仕方から、食事の作法。リーリュアが王女として幼いころから教え込まれてきたものの多くが、この葆では役に立たなかった。

 いまのままでは皇帝の妻として人前に出たときに自分が恥をかくばかりか、苑輝にまで迷惑をかけてしまう。そう考えて、颯璉に葆流の作法を一から教えて欲しいと願い出た。

「それでは、まずは最低限のものから」

 水を得た魚のように指導を始めた颯璉は、容赦がない。朝起きるところから寝台に入るまで、行動のすべてを監視される。一日中気を抜くことができない日々が続いていた。

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