愛し君に花の名を捧ぐ
 皇帝が公務を行う前朝に比べ、後宮でみかける官吏の数は格段に少ないが、そのかわりに数多の宮女が働いている。
 女性がリーリュアを見る目は男性のそれより格段に厳しく感じられ、つい足は人気の少ない方へと向かっていった。

 思悠宮からずいぶん離れてしまっていたが、紅珠は先ほどのやりとりを気にしているのか、なにも言わずについてくる。

 大きな池や水面に張り出す涼しげな四阿もあった。清らかな流れをつくる川には石橋が渡され、その下を水鳥が通る。人の手により整えられた庭園と、あえて残された自然が混在する、庭と呼ぶにはあまりに広大な敷地を、あてもなくただ歩き続けていた。

 リーリュアの耳が、自然が創るものとは違う音を拾う。はっきりとした歌詞が聴き取れるわけではないが、誰かが歌っているようだ。

 もの悲しいのに懐かしくも感じる旋律に引き寄せられ、リーリュアは音源を辿り始める。

 行き当たったのは、背の高い木々に隠されひっそりと建つ、思悠宮と同等かやや大きな宮だった。
 ただし、思悠宮とは大きな違いがある。建物の周りをぐるりとリーリュアの背よりも高い塀が囲んでいるのだ。

 閉まっている扉の前には衛士がふたり立っている。歌声はこの建物から漏れているらしい。リーリュアは声の主を探して、まるでなにかを閉じ込めているような塀の周囲を、ゆっくり歩いて回った。

「あそこからだわ」

 すぐ内側は庭園になっているらしい。塀に設えられた花窓から覗くと整えられた草木や灯籠、築山などが見える。横へ滑らせた視線の先にある小さな四阿に、人影をみつけた。

 柱に寄りかかるようにして立っているのは、白髪を髷に結い上げた老女だった。年の頃はリーリュアの両親よりも上だろう。定まらない視線を宙に向け、薄い唇が例の歌を口ずさんでいる。身につけている襦裙や装飾品などから、高い身分の人物だと見て取れた。

 不意に、彷徨っていた彼女の視線がリーリュアのいる花窓に向けられる。のぞき見などという無作法を咎められるかと、リーリュアは壁から離れようとした。

 しかし老女は、年齢には些か不釣り合いに思えるほど鮮やかな紅を塗った唇で笑みを作る。若いころの美しさを想像させるに十分な妖艶さだった。

 披帛をたなびかせながらこちらへ近寄ってくる。幽鬼のようなその足取りに、思わずリーリュアは後退った。
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