愛し君に花の名を捧ぐ
「離して。離しなさい、キール!」

『こんなときでも葆の言葉なんだ』

 足は止めたが、手の力はさらに増す。

「陛下の前でこんなことをして、どうなるかわかっているの?」

「あいつにはなにも言う権利なんかない。だって、姫様はお后じゃないんでしょう?」

「それは……。だけど、っ!?」

 大木の幹に身体を押しつけられて、両腕で囲い込まれてしまう。十年前はリーリュアより低かったのに、いまはずっと高い位置にあるキールの目が見下ろしていた。

「だったら、オレがこんなことをしても問題はありませんよね?」

「なにを、言っているの?」

 ふっ、とキールが鼻で笑った息がかかる距離に、困惑を隠せない。

「オレがどんな思いで姫様の傍にいたか、知らなかったんですか? 熱心に葆語を習っている間も、瞳を輝かせて葆皇の噂話に聴き入っているときも。オレはずっと、リーリュア様しかみていなかったのに」

 そんなことは知らない。一心に首を横に振り続ける。

「だって、キールは……」

「弟みたいなもんだから?」

 みたこともない笑みで口を歪め、キールはリーリュアの耳の縁から首筋に沿って指先を滑らせていく。びくりと肩を揺らすと満足げに目を細めた。

「オレは姫様のことを、ただの一度だって姉だと思ったことなんかない。命をかけて守らなければいけない大切な姫君で、誰よりも愛しい女性(ひと)だった」

 見開かれた翠の目は、切なげに眉を寄せるキールを映す。そこから視線を逸らして、彼は小さく息を吐いた。

「王女への恋なんて叶わない想いだと初めからわかっていたから、伝えるつもりはなかった。せめて、傍であなたの幸せを見守ることができるのなら、それで満足するつもりだったのに……」

 下りてきた指が、小さな顎先を捕らえて持ち上げる。

「あんな奴を好きになったリーリュア様が悪いんです」

 近づけられる顔を避けることもできないリーリュアの瞳からひと雫の涙が、乾いた唇からは音にならないひと言が零れた。

 途端に身体から圧が消える。

 キールが傍らの木に思い切り拳を叩きつけた。驚いた鳥が啼きながら飛び立っていく。

『ごめん、ってなんなんですか』

 リーリュアは震える肩に触れようとした手を引く。

「キールの気持ちに気づかなくてごめんなさい。心配ばかりかけて、辛い思いをさせてごめんなさい。それから……あなたの想いに応えられなくて、ごめんなさい」

 どんなに大切で好きだと思っていても、それはあくまで身内としての愛情だ。苑輝へ向けているものとは質が違う。

『勝手にしろっ!』

 木立の中に消えて行くキールを引き止める資格は、いまのリーリュアにはない。

 自分をいつも守ってくれていた背中が完全に見えなくなるまで、ごめんなさいと何度も繰り返していた。
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