愛し君に花の名を捧ぐ
「明日は、雷珠山にあります宗廟へおいでになるのです。西妃様、早くお休みになられてくださいませ」

 颯璉に催促されるが、こんな日に限って睡魔が下りてこない。まったく読めない書物でも紐解けばもしかしたら、と思い卓上に広げてみたが、徒労に終わった。

 明朝、リーリュアは琥氏の祖先が祀られている廟へ礼拝に赴く。すっかり遅くなってしまったが、嫁いできたことを先祖に報告するのだ。

 画でみせてもらった、蛇の親玉みたいな龍が封印されているという場所を訪ねるのに、緊張するなというほうが無理である。
 万一『嫁失格』の烙印を押されて雷を落とされたらと思うと、うかうか被褥に入ってなどいられなかった。

 長椅子にもたれかかり、揺らぐ灯火に合わせてゆっくり首を動かしていたリーリュアは、知らず知らずに歌詞のない歌を口ずさんでいた。

「……その歌は? 以前にも歌っていたが」

 不意に降ってきた声にぼんやりとしていた視線を上げれば、苑輝が怪訝な顔でリーリュアを見下ろしていた。礼をとるため立ち上がろうするリーリュアを留めて、苑輝は隣に腰掛ける。

「今夜はいらっしゃらないのかと」

 明日の朝は早い。いくら輿に乗るとはいえ、日頃の疲れを取るためにも、苑輝もそうそうに休むのだと思っていた。

「ああ。早く帰れと李父子に執務室から追い出されてしまったから、百合の顔だけ見たら丞明殿に戻ろうと思っていたのだが……」

 苑輝はつい今し方まで旋律を奏でていたリーリュアの唇を指先でなぞる。

「その歌はどこで習った? 颯璉か?」

 問い質す苑輝の眼差しには、曲調と同じく切なさと懐かしさが入り交じっていた。少し逡巡したのち、リーリュアは小さく首を横に振る。

「習ってはいません。二度ほど聞いたきりです。……皇太后様の宮で」

 盗み聞きしただけの歌詞もわからない旋律が、なぜかリーリュアの耳に残り続けていた。心が落ち着く不思議な曲。

「それは子守歌だ。まだ私が幼かったころ、枕元で母がよく歌ってくれた……」 

 曲の正体を聞いて腑に落ちる。だからこれほどまでに、懐かしく、優しく染みてくるのだと。

「苑輝様」

 リーリュアは決意を込めて、思い出の中にある母親の歌に耳を澄ませていた苑輝に声をかける。

「わたくしに教えてくださいませんか。この歌を聴かせてあげたいのです。あなたの御子に、あなたがお母様に歌ってもらったように」
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