世子様に見初められて~十年越しの恋慕


白檀の香りはあの方を思い出す。
完全に刷り込まれたようで、滑らかな絹地越しに伝わる鍛え抜かれた胸板の感触と優しい眼差し。
そして、自分の名を口にする柔らかい声音。
自分の意思とは関係なく、白檀の香りを嗅いだだけで連想してしまった。


十年前のあの日。
ひょんなことで出逢った彼が、正真正銘この国の世子であると知ったのは数日前。
けれど、ソウォンは何となく分かっていた。
それは、ソウォンの胸元に秘し隠しているトルパンジがそう思わせる。

白檀の香りで眠れそうにない為、ソウォンは戸を半分ほど開けると、下弦の月が浮かんでいた。

そっとトルパンジを取り出す。
それは、淡い月明りでも煌々と輝きを放つ。
しかも、十年もの歳月の間ずっと首から掛けているにもかかわらず、一度も切れた事のない革紐。
ソウォンの家にも皮製品は幾つもあるが、これほど丈夫で艶のあるものは見たことが無い。
それゆえ、これが相当な価値のものだとソウォンは察していた。

下弦の月を眺め、ざわつく心を落ち着かせようとする。
すると、別堂(ピョルダン:結婚前の息子や娘が居住する建物)の西側にある舎廊房(サランバン:主人の居室)の方からヘグム(奚琴:朝鮮の弦楽器)の音が微かに聞こえて来た。
ソウォンの父親であるジェムンの為に、妻であるヒジンが奏でているようだ。

二人は年老いても、いつも仲睦まじく寄り添う。
世の両班の男性が側室を多く設ける中、ソウォンの父は生涯妻は一人と決めているのだ。
そんな両親を見て育ったソウォンは、父親が誇らしく思う。

都のあちこちで、どこどこの主が何人目の側室を設けただたとか、何々家の側室同士の争いが絶えないだとか、耳にしない日は無い。
人の口には戸が立てれないもの。
些細な事でもあっという間に都中に広まってしまうのだ。

母親が奏でるヘグムの音を聴きながら、ソウォンはふと思い出した。
あのお方にも同じような噂が立っていたことを。


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