ここにはいられない
帰るべきなのだろう。
十分にお世話になったのだから。
けれど、私の事情はそれを許してはくれず、彼の指が奏でるキーボードの音と低く抑えられたテレビの会話だけが空間を滑っていく。
一向に動かない私をさすがに彼も不審に思ったようで、手を止めてこちらを見た。
今初めて会った人で、彼には何の義理も義務も責任もなくて、本当に申し訳ないのだけれど、今私が頼れるのは世界で彼しかいなかった。
「あの、お願いがあるのですが」
まだ何も話していないのに、すでに顔が赤くなっている。
雰囲気だけで先を促す彼から目を逸らして、自分のつま先を見つめて言葉を続けた。
「実は、トイレが故障して使えなくなってしまって、今後も貸していただけないでしょうか?」
突飛な内容にも関わらず彼は冷静な声で言った。
「修理の間、ということですか?」
「いえ、その、直すのは難しいそうで・・・。えっと、トイレブラシを落としてしまって」
「ああ、なるほど」
同じタイプのトイレを使う者として、それだけでほとんど全ての事情を察してくれた。
「来月には引っ越すことが決まっているのであと一月だけ。夜とお休みの日だけ、お願いできませんか?」