ここにはいられない
聞こえているし、ちゃんと返事もしているのに、千隼は黙って動かない。
なんとなく私も動けないまま、小さなあぶくが浮き上がってくる鍋をじっと見ていた。
「そういえば、一応道具は揃ってるけど料理はするの?」
「料理、というほどのものじゃない」
「カップラーメン?」
「いや、肉と野菜を炒めるくらいはする。煮ることはあまりない。揚げ物はしない」
「揚げ鍋ないもんね。煮物もしないの?」
「煮たあとどうすればいいかわからないから。炒めたやつは塩胡椒でも焼き肉のタレでもかけておけばいいし」
「なるほどねー」
ぐつぐつ沸騰した鍋の灰汁を取り、また少し煮込む。
こんなにカレーの鍋を見ることは今後もないと思う。
「長い間、迷惑掛けてごめんね」
「いや」
「初対面の怪しい女、よく家に出入りさせたよね」
「知ってたよ」
「え?」
「毎朝、庁舎で挨拶してくれてたから。だから顔くらいは知ってた」
「そんなの知ってるうちに入らないよ」
どうせ誰も返事なんて返してくれないと思っていたけど、何が身を助けるかわからないものだ。
「だけど、別に誰でもってわけじゃない」
本来ならルーを溶かしてから少しくらいは馴染ませた方がいいのだけど、お互いに手持ち無沙汰なので食べてしまうことにする。
ご飯にカレーをかけて、ほうれん草と、炊飯器で一緒に作った茹で卵、千隼の方だけ真っ赤な福神漬もつけた。
「わあー、きれい!」
赤、緑、黄色、白。
サラダを付けない代わりにトッピングをつけたら彩りがグンと上がった。
あとはベーコンと玉ネギのコンソメープと、ビール。
自分一人だったらきっとコンビニ弁当になっていた。
全然終わっていない荷造りでくたくたになって、その辺に転がって朝を迎えたに違いない。
トイレが使用できないことは切実な問題で、そこに手を差し伸べてくれたことは本当に助かったのだけど、千隼にはそれ以上に、家を借りる以上に、たくさんの気持ちを救ってもらったのだと思う。