公爵様の最愛なる悪役花嫁~旦那様の溺愛から逃げられません~
「あの声は……」
ジェイル様はそんな独り言を呟いて、人垣の向こうに目を凝らす。
それから「クレアは馬車に戻ってろ」と低い声で命じ、ひとりで歩き出してしまった。
その命令には従わず、私は数歩の距離を置いてついていく。
じっとしてはいられない。
怒鳴る男に泣きながら口答えしている、子供の声が聞こえてきたからだ。
人垣まで来ると、彼から離れるように反対側に回り込み、人の間に潜り込んで輪の中を覗いた。
歳の頃は六十になろうかという初老の紳士が、子供を叱りつけていた。
肩までの茶色の髪には白髪が混ざり、口髭を蓄え、立派な身なりをしている。
上背があって恰幅もよく、超えた腹の脇には装飾性の高い剣の鞘が見えていて、貴族であることはひと目で分かった。
しきりに「下ろし立ての上着が」と口にしているところを見ると、金刺繍の施されたワインレッドの上着が、ことの外大切なようだ。
一方、叱られている子供は、庶民的な服装をした六歳くらいの少年だった。
側に親の姿がないので、彼は近所に住んでいて、ひとりでここに遊びにきたのかもしれないと思った。