公爵様の最愛なる悪役花嫁~旦那様の溺愛から逃げられません~
「クレア!?」
ドナが驚いた顔をして私を見上げ、足を後ろに一歩引いた。
懐いてくれる少女ですら後ずさるほどに、私の心は黒く冷たい怒りに汚染され、それが表情にも表れているのだろう。
フラフラとドアに向けて歩く私の耳には、呼びかける子供たちの声も、心配するシスターの声も入らなかった。
その夜、空には青白く丸い月が浮かんでいた。
家々の窓辺にランプの灯りは消えても、月のおかげで夜闇の中に物の形を捉えることはできる。
まるで夢遊病者のように、私は住宅地を徘徊していた。
右手に握りしめているのは、象牙でできた立派な印璽(いんじ)。
手紙などの封蝋に使われるもので、その家の印章が彫り込まれている。
母の形見と言えるこの印璽は、母にとっては夫の形見だった。
十数年前に隣の領地との境を巡る紛争が勃発し、父はゲルディバラ伯爵の命で戦地に赴き、帰ることはなかったそうだ。
そのとき私は乳飲み子で、父の記憶は一片も残っておらず、悲しむことさえできずに、女手ひとつで育ててもらった。