俺はお前がいいんだよ
「結構です。私、仕事中なので」
「え? この近くで仕事してるの?」
ウキウキした声は、私から何かを吸い取っていくみたい。胃のあたりから変なものがこみ上げてくる。これ以上この人の顔を見ていたくない。中身の保証ができないお弁当の入った袋を持ち上げ、私は逃げた。
「あっ、高井戸さん?」
追いかけてまで来る気はないらしく、彼の声は徐々に遠くはなった。
だけど、自分の居場所の手がかりを与えてしまったことに、私はビビっていた。
どうしよう、また家まで来られたら。もう同じ会社じゃないから、上司に注意してもらうこともできない。
エレベーターが一階まで降りてくるまで、後ろが気になって仕方なかった。
もし追いかけてこられて、何階で降りるのかを見られたら。
考えただけで怖くて、姿が消えるわけでもないのに、息を止めてしまった。
カモフラージュで十二階で一度エレベータを止め、十五階で降りた時には、ずっしりと体が重くなっていた。
会社の中まで行くと、座っていた桶川さんが待ちかねたように身を乗り出してきた。
「遅いぞぉ、高井戸……ってどうした?」
綺麗な顔。
目の保養であるその顔は、ドキドキするもののはずなのに、今の私には、何よりも安心できるものだった。
「すみません。……弁当の袋、落としてしまいました」
ちゃんと輪ゴムで止められていたから食べられないような惨状にはなっていない。でも、おかずが仕切りを超えて混ざってしまっていた。私は食べられるけど、とても桶川さんには渡せない。
「何やってんだよ。見せてみろ。あー、ぐっちゃぐちゃだな」
あははと笑う桶川さんの声で、少しずつ地に足がついてくる感じだ。
大丈夫、森上さんは追ってきていない。気をつけれいればもう会わずにすむはず。
落ちつくのよ私。