MAZE ~迷路~
七 真実
 久しぶりに見る近江(このえ)病院は、月明かりに照らし出され、美波(みなみ)の記憶にあるものよりも、暗く、不気味な雰囲気で聳え立っていた。
「少し離れたところに車を止めます。そこからは、歩いていきます。」
 栗栖(くりす)は言うと、病院の前を通り過ぎてから車を止めた。
 予定の場所に車を止めると、栗栖は美波に偽造の保険証を手渡した。
「本名を使うのはまずいので、私は田村と名乗ります。田村広太(こうた)、それで、美波さんは、私の会社の同僚で宮本華奈(かな)ということに。良いですね。手順は、先ほどお話したとおりで、時計の時間を合わせましょう。」
 栗栖の言葉に、美波は腕時計をはずして手に取った。
「今が、十一時四十五分ですから、作戦の開始は三十分後です。」
 美波は時計の時間を合わせると、再び腕にはめた。
「この辺は、病院が少ないので、十一時半に緊急医療センターの受付が締め切られると、一般の救急患者も、それから救急車の受け入れもすべてが集中してくるんです。そうすると、看護士たちもばたばたして、患者がいなくなっても気がつかないなんて事も、実際にあるんですよ。それで、この計画を考えたんです。」
 栗栖の説明を聞いている間にも、救急車が近江病院の方に走っていった。
「一応、見取り図です。」
 栗栖は言いながら、小さく折りたたまれていた地図を広げた。
 美波は地図を見ながら、以前、絢子の父に案内されて病院内を見学したときの事を思い出した。
「ここから、入って、この通路を通り、こっちの病棟に入ります。」
 栗栖は言いながら、通る予定のルートを指差した。
「その都度、その都度、地図を見るしかないですね。増築に改築で、かなり複雑です。」
 栗栖は言うと、ため息をついた。
「中に入ったら、ティンクの波長をつかめるかもしれない。そうしたら、きっと迷わないわ。」
 美波が言うと、栗栖は地図をたたみ始めた。
「どんな仕事ですか?」
 美波の質問の意味が解らず、栗栖は手を止めた。
「ほら、仕事場で気分が悪くなったのかとか、聞かれるんじゃないかと思って。」
 美波が言うと、栗栖はすぐに頷いた。
「それは、そうですね。美波さんが、やりやすい仕事で良いです。そういえば、高校時代は演劇部だったんですよね。翔悟(しょうご)が言ってました。」
 栗栖が言うと、美波は頭で考えをまとめた。
「この保険は文具関連の保険組合みたいだから、文具の卸関連にしましょう。」
 美波は言いながら、偽造の保険証を見つめた。
「良いですよ。私は具合が悪くて、何も言えない様に見せかけておきますから。」
 栗栖は、気持ちを落ち着けるように深呼吸した。
 時計はすでに零時を回っていた。
「看護士の名は、秋元千紗(ちさ)と言います。名札をつけているので、すぐわかるはずです。」
 美波は頭の中で情報を整理しながら、何度も無言で頷いた。
「携帯、車の中に置いて行ったほうが良いですね。」
 美波は言うと、携帯の電源を切った。
「荷物も、置いていきます。」
 美波は言いながら、上着の下に巻いているウエストポーチに荷物を移した。
「準備が良かったら、教えてください。」
 栗栖の言葉から、美波は作戦開始時刻が迫っている事を感じた。

(・・・・・・・・本番五分前。私は宮本華奈、栗栖さんは田村広太。私たちは会社の同僚・・・・・・・・)

 美波は目を閉じて心の中で繰り返すと、大きく深呼吸した。

(・・・・・・・・ティンク、いま迎えに行くから・・・・・・・・)

 美波はそう強く念じると、目を開けた。夜空の星を散りばめたような美波の瞳は、黒ではなく緑色をしていた。
「田村さん、いつでも始められます。」
 美波が言うと、栗栖は用意しておいたウォッカを口に含んだ。
 焼けるような痛みを感じながら、栗栖はウォッカを口に含み続けた。それから、車のドアーを開けると、一気にウォッカを吐き出した。
「これで、少しは酒臭くなってるはずです。」
 栗栖は言うと、車から降りた。
「華奈さん、行きましょうか。」
 栗栖が言いながらドアーをあけると、美波は頷いて車から降りた。
「じゃあ、私は具合が悪いと言う事で、肩に手をかけたりしますが、良いですか?」
 あくまでも礼儀正しい栗栖に、美波は頷きながら答えた。
「田村さん、具合が悪いんですから、気にしないでください。」
 美波が言うと、栗栖は申し訳なさそうな顔をしながら美波の肩に腕を回した。

☆☆☆

 救急の受付は、予想通りごった返していた。
「すいません、気分が悪いんです。見ていただけますか?」
 美波が控えめに言うと、受付の窓口近くにいた看護士が、無造作に問診表を手渡した。
「これに記入して、保険証と一緒に出してください。」
「ありがとうございます。」
 美波は答えると、保険証を見ながら、田村広太の問診表を記入した。
「お願いします。」
 美波が書き終えた問診表と保険証を手渡すと、看護士はじろりと美波の事を見つめた。
「具合が悪いのは、田村広太さんですね。あなたは?」
「会社の同僚の宮本と言います。飲み会で具合が悪くなって、家が同じ方向なので送ってきたのですが、やはり具合が悪いと言って、駅から病院の場所を聞いてきたんです。」
 美波が困ったように言うと、看護士は問診表に目を通し始めた。
「飲み会で具合が悪くなったんですね。どれくらい飲んだか解りますか?」
「最後に見たのは、ウォッカを飲んでると言うか、ボトルを持ってるところで、席が近かったわけではないので、詳しくは。」
「いつも、たくさん飲まれるんですか?」
「そうですね、人並みだと思います。ただ、いまは吐き気があって、横になりたいと言っているんです。」
 美波の返事に、看護士は何かをいろいろチェックした後、一番手前の部屋に入って待つように言った。
「ありがとうございます。」
 美波は返事をすると、栗栖のところに戻り、どこから見ても、ぐてんぐてんに酔っ払っているように見える、千鳥足の栗栖の手を引いて部屋まで進んでいった。


「さあ、田村さん、横になって。」
 美波が言っているところに、看護士がやってきた。
 美波は、すばやく名札に目をやった。
「具合はいかがですか? 吐きそうな時は、これを使ってください。」
 看護士は言いながら、栗栖の顔を見てからカーテンを閉めた。
「はじめまして、秋元です。」
 秋元は声をひそめて、美波に話しかけた。
「これから、パスコードを取ってきますから、着替えを済ませて待っていてください。脱いだものは、この袋に入れて、出口脇のゴミ捨て場に隠しておきますから。」
「わかりました。」
 美波が言うと、秋元は部屋から出て行った。
 横になりかけていた栗栖は、すばやく起き上がると、余分な服を脱いで袋に入れた。美波は、既に車の中に上着を置いてきたので、そのまま袋を縛って閉じた。
「そんなに気分が悪いなら、トイレに言ったほうが良いですね。歩けますか?」
 いつの間にか戻ってきた秋元は、栗栖に声をかけながら、美波に小さく折りたたんだ紙切れを手渡した。
「気をつけて。」
 最後にそう言うと、秋元は栗栖の衣服が入った袋を片手に、部屋から出て行った。
「一番は、ただの飲みすぎだわ。しばらく休めば大丈夫です。診察なしで。」
 大きな声で、秋元が仲間に話しているのが遠くから聞こえてきた。
「行きましょう。時間がない。」
 栗栖は言うと、美波に合図して部屋を後にした。

☆☆☆

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