MAZE ~迷路~
将臣は、毎日、何度も絢子の部屋を訪れた。繰り返される日々の末、絢子は再びつわりを訴え始めた。
「絢子、おめでとう。」
妊娠を告げに来た将(まさ)臣(おみ)は、以前にも増して幸せそうだった。
「子供が生まれて、絢子が一族の掟に従うって誓えば、こんな部屋に閉じ込められる事もなくなるよ。」
将臣は言うと、絢子の好物のマスクメロンと真新しいネグリジェを手渡した。
「お祝いだよ。また、後で来るよ。」
「ありがとう。でも、メロン食べられないわ。」
絢子は、残念そうに言った。
「ああ、そうか。じゃあ、後でナイフを持ってくる。」
それだけ言うと、将臣は部屋から出て行った。
「メロン。あれから、どれ位時間がたったんだろう。」
絢子はつぶやくと、ネグリジェを着、メロンを抱いてベッドに座り続けた。
哲の事を忘れた事は一度もなかったが、獣のように振舞う養父と、やっと優しく接してくれる義兄に、哲の事を尋ねる勇気は、いまの絢子にはなかった。
哲は生きている、そう信じる事だけが、絢子を生き続けさせていた。
約束どおり、将臣は果物ナイフとスプーンを届けてくれた。
「一緒に食べましょう。」
絢子が言うと、将臣は上機嫌でベッドに腰を下ろした。
「可愛い絢子。」
将臣は言うと、絢子を抱きしめてキスをした。
「子供と一族のためとはいえ、この禁欲の日々は苦しいね。明日からは、父さんに代わるよ。でも心配ない。一族の掟で、身篭っている巫女には手を出してはいけないんだ。だから、父さんが来ても何もしないよ。」
そう言うと、将臣は絢子のためにメロンを切った。
「皿も何もなかったね。明日食べるときのために、ナイフは置いておくよ。」
四分の一にスライスしたメロンを絢子に手渡しながら、将臣は言うと、整理だなの上にメロンを置いた。
久しぶりに食べるメロンは、とてもおいしかった。
メロンを食べ終わると、将臣はもう一度キスをして部屋から出て行った。絢子は、果物ナイフを見えない場所に隠すと、スプーンでほじくるようにして残りのメロンを全部たいらげた。
将臣の言葉どおり、翌日からは父の政臣が姿を現すようになった。
久しぶりに会う政臣は、まるで絢子に対する興味を失ったかのように、業務的な態度だった。また、将臣に釘を刺されたのか、必要以外に絢子の体に触れる事すらなかった。
あくまでも業務的に、栄養剤や食事の指示をすると、政臣はすぐに部屋を去っていった。
絢子は将臣の言葉を信じて、政(かず)臣(おみ)の指示通りに栄養剤を飲み、出される食事をできるだけ全部食べるようにした。
それだけに、突然の腹痛と出血に、絢子は驚きを隠せなかった。
「お願い、誰か来て!」
絢子は必死にドアーを叩いて助けを呼んだが、誰も外にいないのか、ドアーが開く気配も、人が来る気配もなかった。
そして、猛烈な痛みの波に襲われた絢子は、ベッドを目前に床に倒れこんだ。
絢子が目を覚ますと、蒼い顔をした将臣の姿が目に入った。
「お兄さん。」
絢子が声をかけると、将臣が振り向いた。
「絢子、・・・・・・・・駄目だったよ。もう、僕の力じゃなんともならない。」
将臣の言葉の意味が解からず、絢子は首をかしげた。
「子供は流産したよ。でも、それだけじゃない。子供は奇形だったんだ。だから、僕はその責任をとって、絢子の相手からはずされた。もう、絢子を抱く事は許されないんだ。」
将臣は言うと、寂しげに絢子を見つめた。
「私、どうなるの?」
絢子の言葉に、将臣は何も答えなかった。
「絢子、僕は、絢子が好きだった。だから、絢子の相手でいたかった。それだけは、信じてくれ。預言者の父としての身分や権力なんてものが欲しかったわけじゃない。絢子の体が儀式に耐えられるようになるまでは、逢いに来れる。」
将臣はそれだけ言うと、絢子を置いて出て行った。
それから、何度か将臣は絢子に会いに来たが、将臣言うところの、『儀式に耐えられる』状態になったのか、ある日を境に、将臣はぱったりと姿を現さなくなった。それでも、特に何も変わることなく、絢子は毎日を入院患者のように過ごし続けた。
絢子が異様な気配に気がついたのは、本能的に月明かりを感じたからでもあった。
窓のない部屋に長い間閉じ込められていた絢子は、久しぶりに浴びる月明かりに、植物が太陽の光に葉を伸ばすような開放感を感じていた。
(・・・・・・・・月の光だ・・・・・・・・)
美波も一緒に、その開放感を感じていた。
しかし、ひとたび絢子が瞳を開けると、その異様な気配に美波は絶句した。
(・・・・・・・・何なの、この人たち・・・・・・・・)
そこには、鳥の羽を身にまとい、体を赤や黒の染料で染めた、まるで鶏のような姿をした男たちが並んでいた。男たちはみな一様に仮面をかぶり、上半身を羽毛で被い、下半身は裸のままで、靴も履いていなかった。
気がつくと、絢子が目覚めた場所は監禁されていた部屋ではなく、ほぼ真上から月明かりが差し込むサンルームの様な部屋で、寝かされているのもベッドではない硬い祭壇のようなものの上だった。
「我らが貴き巫女よ。偉大なる預言者であり、我らが救世主たる者の母なる者よ。」
かすれた、ざらつくような声が言った。
「これから聖なる儀式を始める。」
その言葉を合図に、祭壇を取り囲んでいた男たちが、一斉に絢子の方に歩み寄り、手を延ばしはじめた。
男たちの手は、無造作に絢子の体をつかむと、抱えあげるようにして絢子をうつぶせに寝かせた。そして、抵抗する間もないうちに、絢子は男たちの手によって、四つんばいにさせられた上、後ろ手に縛り上げられた。それでも、何の痛みも感じなかった。
まるで蝋で固められたように、体はまったく絢子の意思に従う様子はなく、触れられている感触さえ感じなかった。
無理な体勢のまま、首をまげてやっと息をしていた絢子は、次の瞬間、感覚を失っていない場所が体に残されていた事を発見した。
『やめて!』
声に出そうとしても、舌すらも麻痺してしまっているようで、口から出るのは空気だけだった。
一人の男が絢子を犯している間に、残りの男たちは絢子の体に染料を塗り続けた。そして、一人、また一人と、男たちが入れ替わるたびに、絢子は仰向けにされ、苦い液体を飲まされた。その液体を飲む度に、絢子は光る星や、白馬の幻覚を見、小波の音のような幻聴が不気味な祈りの歌へと変わって行った。やがて、祈りの歌は段々と大きくなっていき、絢子は意識を失っていった。
☆☆☆
有紀子を休ませては見たものの、智と敦は会話もないままじっと椅子に座り続けていた。そんな二人の耳に電話のベルが聞こえたのは、午前三時を過ぎてからだった。
「はい、粟野原です。」
慣れた様子で、すぐに敦が電話に出た。
『敦、有紀子おばさんは?』
かけてきたのは、敦の母、美(み)夜子(やこ)だった。
「おばさんなら、さっき少し休むように言ったよ。」
『そう。あなた、美波ちゃんから、翔悟さんのお兄さんと出かけるって聞いたのね? 他に名前とか、何も聞いてない?』
敦は、母の声がいつもより緊張している事に気がついた。
「いま思い出した。くりす、くりすたかとしって言ってた。」
敦が名前を口にした瞬間、智が湯飲みを取り落とした。
「どうしたんだ?」
敦は言うと、手元にあった台布巾を智に投げて渡した。
『敦、いま、なんて言ったの?』
「ああ、智の奴が・・・・・・・・。」
母の問いに、敦が答えようとすると、美夜子は敦の言葉を遮った。
『いま、栗栖万年って言ったの?』
「そうだよ。知ってるの?」
敦の答えに、電話の向こうの美夜子は沈黙した。
「その男、絢子さんの事件を今もかぎまわってる男だ。」
智の言葉に、今度は敦が絶句した。
「出版社にも問い合わせたんだ。でも、居所がわからなくて・・・・・・・・。」
そう言いながら、智にも、どうやって美波がその人物に接触したのか理解できなかった。
『すぐにそっちに行くわ。』
美夜子は言うと、電話を切った。
「智、どういうことだ?」
要領を得ない敦は、電話を切ると、智に問いかけた。
「この間、話を聞いただろ。それで、いろいろ調べてみたんだ。そうしたら去年まで、ずっと毎年、あの事件の記事を書いているライターを見つけたんだ。ところが、出版社もつぶれて、ライターの名前しかわからない、そんな感じだったんだ。」
智が言うと、敦は今にも掴みかかりそうな様子で問いかけた。
「お前、約束をやぶって美波に話したな?」
智は、正直に答えるべきか、それとも嘘でごまかすべきか、返事ができないまま躊躇した。その智の様子に、敦は『美波に話した』と理解した。
「俺が話したのは、絢子さんは亡くなったんだって事だ。もう、帰ってこないって。それ以上は話してない。例の、カルトだの何だのってのは、記事も見せてない。」
智は慌てて言うと、敦のことを見つめた。
「ただ、美波は、もし絢子さんが死んだんなら、その確証が欲しいって頑張ってた。」
智の言葉に、敦は両手で頭を抱えながら、ゆっくりと頭を横に振った。
☆☆☆
目覚めた絢子は、いつもの部屋のベッドに寝かされていた。体中の痛みに、起き上がってみると、小さな切り傷や擦り傷で全身覆われていたが、塗りたくられたはずの染料はまったく残っていなかった。
『夢なんかじゃない・・・・・・。』
絢子はつぶやきながら、昔見たオカルト映画を思い出した。
それからしばらくの間、食事を運んでくる以外、政臣も姿を現さなくなった。
何度目かの尿検査の後、久しぶりに将(まさ)臣(おみ)が姿を現した。
「怖かっただろ。」
将臣は言うと、絢子の頭をやさしく撫でた。
「あれは幻覚剤か何かでしょ? 本当にあったんじゃないわよね?」
絢子が言うと、将臣は頭を横に振って見せた。
「おめでとう。妊娠してる。もし、妊娠してなかったら、今度の満月の晩に、また儀式をやる予定になっていたんだ。今回は、排卵を促進する薬を使ってあったから、うまく行ったみたいだ。」
将臣は言うと、たまらなくなって絢子を抱きしめた。
「あんな目にあわせたくなかったのに。」
将臣は言うと、ゆっくりと絢子から離れた。
「絢子が妊娠している間は、絢子の傍に来ても良いって許しを受けたから。また来るよ。」
それだけ言うと、将臣は部屋から出て行った。
☆☆☆
廊下で待っていた栗栖は、腕時計を見ながら、中の音に耳を澄ませた。しかし、最初のうち聞こえていた美波の声も、今はまったく聞こえなくなっていた。
栗栖は腕時計に目をやり、時間を確認した。
「もう一時間か・・・・・・。」
栗栖はつぶやくと、携帯を取り出し階段の方へ歩き出した。
☆☆☆
「絢子、おめでとう。」
妊娠を告げに来た将(まさ)臣(おみ)は、以前にも増して幸せそうだった。
「子供が生まれて、絢子が一族の掟に従うって誓えば、こんな部屋に閉じ込められる事もなくなるよ。」
将臣は言うと、絢子の好物のマスクメロンと真新しいネグリジェを手渡した。
「お祝いだよ。また、後で来るよ。」
「ありがとう。でも、メロン食べられないわ。」
絢子は、残念そうに言った。
「ああ、そうか。じゃあ、後でナイフを持ってくる。」
それだけ言うと、将臣は部屋から出て行った。
「メロン。あれから、どれ位時間がたったんだろう。」
絢子はつぶやくと、ネグリジェを着、メロンを抱いてベッドに座り続けた。
哲の事を忘れた事は一度もなかったが、獣のように振舞う養父と、やっと優しく接してくれる義兄に、哲の事を尋ねる勇気は、いまの絢子にはなかった。
哲は生きている、そう信じる事だけが、絢子を生き続けさせていた。
約束どおり、将臣は果物ナイフとスプーンを届けてくれた。
「一緒に食べましょう。」
絢子が言うと、将臣は上機嫌でベッドに腰を下ろした。
「可愛い絢子。」
将臣は言うと、絢子を抱きしめてキスをした。
「子供と一族のためとはいえ、この禁欲の日々は苦しいね。明日からは、父さんに代わるよ。でも心配ない。一族の掟で、身篭っている巫女には手を出してはいけないんだ。だから、父さんが来ても何もしないよ。」
そう言うと、将臣は絢子のためにメロンを切った。
「皿も何もなかったね。明日食べるときのために、ナイフは置いておくよ。」
四分の一にスライスしたメロンを絢子に手渡しながら、将臣は言うと、整理だなの上にメロンを置いた。
久しぶりに食べるメロンは、とてもおいしかった。
メロンを食べ終わると、将臣はもう一度キスをして部屋から出て行った。絢子は、果物ナイフを見えない場所に隠すと、スプーンでほじくるようにして残りのメロンを全部たいらげた。
将臣の言葉どおり、翌日からは父の政臣が姿を現すようになった。
久しぶりに会う政臣は、まるで絢子に対する興味を失ったかのように、業務的な態度だった。また、将臣に釘を刺されたのか、必要以外に絢子の体に触れる事すらなかった。
あくまでも業務的に、栄養剤や食事の指示をすると、政臣はすぐに部屋を去っていった。
絢子は将臣の言葉を信じて、政(かず)臣(おみ)の指示通りに栄養剤を飲み、出される食事をできるだけ全部食べるようにした。
それだけに、突然の腹痛と出血に、絢子は驚きを隠せなかった。
「お願い、誰か来て!」
絢子は必死にドアーを叩いて助けを呼んだが、誰も外にいないのか、ドアーが開く気配も、人が来る気配もなかった。
そして、猛烈な痛みの波に襲われた絢子は、ベッドを目前に床に倒れこんだ。
絢子が目を覚ますと、蒼い顔をした将臣の姿が目に入った。
「お兄さん。」
絢子が声をかけると、将臣が振り向いた。
「絢子、・・・・・・・・駄目だったよ。もう、僕の力じゃなんともならない。」
将臣の言葉の意味が解からず、絢子は首をかしげた。
「子供は流産したよ。でも、それだけじゃない。子供は奇形だったんだ。だから、僕はその責任をとって、絢子の相手からはずされた。もう、絢子を抱く事は許されないんだ。」
将臣は言うと、寂しげに絢子を見つめた。
「私、どうなるの?」
絢子の言葉に、将臣は何も答えなかった。
「絢子、僕は、絢子が好きだった。だから、絢子の相手でいたかった。それだけは、信じてくれ。預言者の父としての身分や権力なんてものが欲しかったわけじゃない。絢子の体が儀式に耐えられるようになるまでは、逢いに来れる。」
将臣はそれだけ言うと、絢子を置いて出て行った。
それから、何度か将臣は絢子に会いに来たが、将臣言うところの、『儀式に耐えられる』状態になったのか、ある日を境に、将臣はぱったりと姿を現さなくなった。それでも、特に何も変わることなく、絢子は毎日を入院患者のように過ごし続けた。
絢子が異様な気配に気がついたのは、本能的に月明かりを感じたからでもあった。
窓のない部屋に長い間閉じ込められていた絢子は、久しぶりに浴びる月明かりに、植物が太陽の光に葉を伸ばすような開放感を感じていた。
(・・・・・・・・月の光だ・・・・・・・・)
美波も一緒に、その開放感を感じていた。
しかし、ひとたび絢子が瞳を開けると、その異様な気配に美波は絶句した。
(・・・・・・・・何なの、この人たち・・・・・・・・)
そこには、鳥の羽を身にまとい、体を赤や黒の染料で染めた、まるで鶏のような姿をした男たちが並んでいた。男たちはみな一様に仮面をかぶり、上半身を羽毛で被い、下半身は裸のままで、靴も履いていなかった。
気がつくと、絢子が目覚めた場所は監禁されていた部屋ではなく、ほぼ真上から月明かりが差し込むサンルームの様な部屋で、寝かされているのもベッドではない硬い祭壇のようなものの上だった。
「我らが貴き巫女よ。偉大なる預言者であり、我らが救世主たる者の母なる者よ。」
かすれた、ざらつくような声が言った。
「これから聖なる儀式を始める。」
その言葉を合図に、祭壇を取り囲んでいた男たちが、一斉に絢子の方に歩み寄り、手を延ばしはじめた。
男たちの手は、無造作に絢子の体をつかむと、抱えあげるようにして絢子をうつぶせに寝かせた。そして、抵抗する間もないうちに、絢子は男たちの手によって、四つんばいにさせられた上、後ろ手に縛り上げられた。それでも、何の痛みも感じなかった。
まるで蝋で固められたように、体はまったく絢子の意思に従う様子はなく、触れられている感触さえ感じなかった。
無理な体勢のまま、首をまげてやっと息をしていた絢子は、次の瞬間、感覚を失っていない場所が体に残されていた事を発見した。
『やめて!』
声に出そうとしても、舌すらも麻痺してしまっているようで、口から出るのは空気だけだった。
一人の男が絢子を犯している間に、残りの男たちは絢子の体に染料を塗り続けた。そして、一人、また一人と、男たちが入れ替わるたびに、絢子は仰向けにされ、苦い液体を飲まされた。その液体を飲む度に、絢子は光る星や、白馬の幻覚を見、小波の音のような幻聴が不気味な祈りの歌へと変わって行った。やがて、祈りの歌は段々と大きくなっていき、絢子は意識を失っていった。
☆☆☆
有紀子を休ませては見たものの、智と敦は会話もないままじっと椅子に座り続けていた。そんな二人の耳に電話のベルが聞こえたのは、午前三時を過ぎてからだった。
「はい、粟野原です。」
慣れた様子で、すぐに敦が電話に出た。
『敦、有紀子おばさんは?』
かけてきたのは、敦の母、美(み)夜子(やこ)だった。
「おばさんなら、さっき少し休むように言ったよ。」
『そう。あなた、美波ちゃんから、翔悟さんのお兄さんと出かけるって聞いたのね? 他に名前とか、何も聞いてない?』
敦は、母の声がいつもより緊張している事に気がついた。
「いま思い出した。くりす、くりすたかとしって言ってた。」
敦が名前を口にした瞬間、智が湯飲みを取り落とした。
「どうしたんだ?」
敦は言うと、手元にあった台布巾を智に投げて渡した。
『敦、いま、なんて言ったの?』
「ああ、智の奴が・・・・・・・・。」
母の問いに、敦が答えようとすると、美夜子は敦の言葉を遮った。
『いま、栗栖万年って言ったの?』
「そうだよ。知ってるの?」
敦の答えに、電話の向こうの美夜子は沈黙した。
「その男、絢子さんの事件を今もかぎまわってる男だ。」
智の言葉に、今度は敦が絶句した。
「出版社にも問い合わせたんだ。でも、居所がわからなくて・・・・・・・・。」
そう言いながら、智にも、どうやって美波がその人物に接触したのか理解できなかった。
『すぐにそっちに行くわ。』
美夜子は言うと、電話を切った。
「智、どういうことだ?」
要領を得ない敦は、電話を切ると、智に問いかけた。
「この間、話を聞いただろ。それで、いろいろ調べてみたんだ。そうしたら去年まで、ずっと毎年、あの事件の記事を書いているライターを見つけたんだ。ところが、出版社もつぶれて、ライターの名前しかわからない、そんな感じだったんだ。」
智が言うと、敦は今にも掴みかかりそうな様子で問いかけた。
「お前、約束をやぶって美波に話したな?」
智は、正直に答えるべきか、それとも嘘でごまかすべきか、返事ができないまま躊躇した。その智の様子に、敦は『美波に話した』と理解した。
「俺が話したのは、絢子さんは亡くなったんだって事だ。もう、帰ってこないって。それ以上は話してない。例の、カルトだの何だのってのは、記事も見せてない。」
智は慌てて言うと、敦のことを見つめた。
「ただ、美波は、もし絢子さんが死んだんなら、その確証が欲しいって頑張ってた。」
智の言葉に、敦は両手で頭を抱えながら、ゆっくりと頭を横に振った。
☆☆☆
目覚めた絢子は、いつもの部屋のベッドに寝かされていた。体中の痛みに、起き上がってみると、小さな切り傷や擦り傷で全身覆われていたが、塗りたくられたはずの染料はまったく残っていなかった。
『夢なんかじゃない・・・・・・。』
絢子はつぶやきながら、昔見たオカルト映画を思い出した。
それからしばらくの間、食事を運んでくる以外、政臣も姿を現さなくなった。
何度目かの尿検査の後、久しぶりに将(まさ)臣(おみ)が姿を現した。
「怖かっただろ。」
将臣は言うと、絢子の頭をやさしく撫でた。
「あれは幻覚剤か何かでしょ? 本当にあったんじゃないわよね?」
絢子が言うと、将臣は頭を横に振って見せた。
「おめでとう。妊娠してる。もし、妊娠してなかったら、今度の満月の晩に、また儀式をやる予定になっていたんだ。今回は、排卵を促進する薬を使ってあったから、うまく行ったみたいだ。」
将臣は言うと、たまらなくなって絢子を抱きしめた。
「あんな目にあわせたくなかったのに。」
将臣は言うと、ゆっくりと絢子から離れた。
「絢子が妊娠している間は、絢子の傍に来ても良いって許しを受けたから。また来るよ。」
それだけ言うと、将臣は部屋から出て行った。
☆☆☆
廊下で待っていた栗栖は、腕時計を見ながら、中の音に耳を澄ませた。しかし、最初のうち聞こえていた美波の声も、今はまったく聞こえなくなっていた。
栗栖は腕時計に目をやり、時間を確認した。
「もう一時間か・・・・・・。」
栗栖はつぶやくと、携帯を取り出し階段の方へ歩き出した。
☆☆☆