MAZE ~迷路~
将臣が去ってしばらくしてから、政(かず)臣(おみ)が姿を現した。将臣とは対照的で、政臣は嬉しくてたまらないといった様子だった。
「よくやった。妊娠している。後は、無事に子供を産むだけだ。」
政臣は言うと、すぐに部屋を出て行った。
将臣は、政臣に代わり、絢子の世話を始めた。
再び、つわりを訴える絢子に、将臣はメロンやいろいろな果物を持ってきてくれた。
「お兄さんとして育てられなかったら、きっと、お兄さんの事、好きになってた。」
絢子は優しい将臣に、思わずそうつぶやいた。
「今からだって間に合う。一緒に逃げるか?」
将臣の言葉に、絢子は耳を疑った。
「一生、逃げて、隠れて暮らさないといけないかもしれない。それでも、絢子が僕を好きになってくれるなら、家も家族も、一族も、それに病院も何もかも捨ててもかまわない。」
将臣が言うと、絢子は戸惑い、将臣に背を向けた。
あまりに多くのものを失い、非現実的な世界に暮らしている絢子には、どうして良いのかわからなくなっていた。
「連中は、子供が生まれるまで、なんどでも儀式を繰り返す。」
将臣の言葉に、絢子は禍々しい儀式の様子を思い出した。
「逃げよう。」
将臣は言うと、やさしく絢子を抱きしめた。
絢子は黙って頷いた。
「絢子が妊娠してるから、連中は安心しきってる。支度をするのに、もう少し待ってくれ。」
それだけ言うと、将臣は部屋から出て行った。
それからも、将臣は毎日欠かさず絢子の独房のような部屋を訪れた。日増しに機嫌が良くなる将臣の様子から、絢子は手配が順調に整っているのを感じていた。
嬉しそうな将臣が、『明日の夜、迎えに来る』と言ったのは、重そうな超音波検診用の機械を押しながら、やってきた日の事だった。
「赤ちゃんの様子が見えるんだよ。」
将臣は言うと、絢子のお腹に機械をあてた。画面を見ている将臣の顔が蒼ざめるまで、そんなに時間はかからなかった。
「・・・・・・・・・・まさか。」
絶句する将臣に、絢子は半分起き上がりながら、将臣の顔を覗き込んだ。
「どうしたの?」
「一人じゃない。」
将臣の言葉に、絢子は最初のときの悪夢を思い出した。
「・・・・・・うそ。」
「しかも、双子でもない。」
絢子は血の気が引いていくのを感じた。
「五人、もしかしたら、もっといるかもしれない。このままじゃ、絢子が死んでしまう可能性だってある。」
将臣は機械を止めると、大きなため息をついた。
「一人じゃなかったら、また、堕胎(おろ)すんでしょう?」
絢子は言うと、唇をかみ締めた。
「そんな事をしたら、もう妊娠できなくなってしまうかもしれない。」
将臣は言うと、同じように唇をかみ締めた。
「とにかく逃げよう。子供の事は、それから考えよう。」
将臣は言うと、機械を片付けて部屋から出て行った。
いつもと様子の違う絢子に、政臣は鎮静剤を打とうとしたが、絢子は子供に良くないと言い張り、政臣の手から注射器を払い落とした。
「どうしたんだ、絢子。」
怪訝な目で絢子を見つめる政臣に、絢子は今までにない強硬な態度で接した。
「健康で丈夫な子供が欲しいんでしょう。だったら、薬はやめてよ。」
政臣は、不愉快そうな表情のまま部屋を出て行った。
(・・・・・・・・眠らされたら、逃げられなくなっちゃう・・・・・・・・)
絢子は考えると、じっと将臣が来るのを待ち続けた。
将臣が姿を現したのは、待ち疲れた絢子がうとうとと、眠り始めた頃だった。
「ごめん。真夜中になるのを待っていたんだ。」
将臣は言うと、用意してきた看護士の制服一式を絢子に渡した。
「とりあえず、これを着て。そうしたら、この台を押しながらついて来るんだよ。」
将臣の言うとおりに、ネグリジェから看護士の制服に着替えた絢子は、すばやく隠しておいた果物ナイフをポケットに滑り込ませた。ナースシューズは、少し大きかったが、歩くのに支障があるほどではなかったので、絢子は何も言わなかった。
絢子が着替えると、将臣は枕を布団の中に入れ、まるで絢子が眠っているかのように、上手に布団をふくらませた。
「いくよ。」
将臣は言うと、絢子をしっかりと抱きしめた。
「何があっても、僕のことは若先生と呼ぶんだ。病院でみんながそうしているように。それから、名前を聞かれたら、秋元千紗と答えて。最近入った見習い生だから、まだ誰も顔を覚えてない。」
それだけ言うと、将臣はいきなり絢子にキスをした。
「万が一、計画が失敗して、僕に何かあっても、絢子はそのまま逃げるんだ。良いね。美波ちゃんの家に行ったら、必ず助けてくれるはずだ。」
将臣の言葉に、絢子は凍りついた。
「知ってるの? みんな、美波の事も知ってるの?」
絢子は言いながら、将臣の白衣に掴みかかった。
「もちろん、みんな知ってるさ。美波ちゃんに手が出せないから、絢子を養子にしたって、父さんは言ってた。」
将臣の答えに、絢子は力が抜けたように両手を放した。
「だめ。逃げられない。美波に危険が・・・・・・・・。」
絢子が言うと、将臣はしっかりと絢子を抱きしめた。
「大丈夫。美波ちゃんには、一族がついてる。全力で守ってる。それに、日本にいない。何も心配する事はない。」
将臣の言葉を信じないわけではなかったが、それでも絢子は迷っていた。
(・・・・・・・・美波を危険な目に遭わせたくない。あんな目に遭わせたくない・・・・・・・・)
絢子は考えると、頭を横に振った。
「だめ、行かれない。美波が・・・・・・・・。」
絢子は言うと、将臣の腕から滑りぬけた。
「絢子、美波ちゃんに警告してあげる必要はある。一族に、今も巫女狩りが続いている事を知らせる必要がある。だから逃げるんだ。」
将臣は言うと、絢子の手を掴んだ。
「いくぞ。」
言うが早いか、将臣は絢子の手を引いてドアーの外へ出た。
気が遠くなるくらい久しぶりに見る部屋以外の空間に、絢子は自分が閉じ込められていた場所を確認するように辺りを見回した。
真っ暗な部屋の壁一面に、レストランの厨房にあるような冷蔵庫が散りばめられているように感じた。
「ここ、霊安室・・・・・・。」
現実に戻った絢子は言うと、言葉を呑んだ。
(・・・・・・・・私、ずっと沢山の遺体と枕を並べて・・・・・・。そんな部屋でお父さんたちは・・・・・・・・)
考えると、絢子の足は凍りついたように動かなくなった。
「さあ、急いで。」
将臣は絢子に言うと、霊安室の中を進んでいった。絢子も、ゆっくりとその後に続いた。
霊安室を出た二人は、ゆっくりとスロープを昇り始めた。一階にたどり着くと、窓から月明かりが差し込んでいた。
月明かりを浴びた絢子は、呪いが解けた白鳥のような開放感に、体が軽くなっていくのを感じた。
「このまま救急入り口まで行って、そこから外に出る。いいね。」
将臣は言うと、先にたって歩き始めた。
しかし、最初の角をまがり、救急病棟に向かおうとした二人は、逆に、救急病棟の方から政臣が歩いてくるのに気がついた。
「しまった。父さんだ。こっちへ。」
将臣は言うと、真裏にある特別病棟の方に進んでいった。
「ここから先は、パスコードがないと入れない。とりあえず、僕の部屋に隠れよう。」
将臣は言いながら、キーパッドでパスコードを入力すると、ドアーをあけて絢子を中に入れた。
「エレベーター、突き当たりにあるから、ボタンを押して。」
将臣に言われて、絢子は急いでエレベーターのボタンを押した。
一階に止まっていたエレベーターは、小さなベルの音と共にドアーをあけた。
「まずい、こっちに来る。」
将臣は言うと、エレベーターに走りこんできた。
「五階を押して。」
将臣の言葉に、絢子はすぐに五階のボタンを押し、ドアーを閉めた。
エレベーターは、思ったよりも早いスピードで上昇を始めた。
「なんか、変な感じ。」
絢子が言うと、将臣は笑って見せた。
「院長室の隣、一つ奥の部屋が僕の部屋だから、鍵はかかっていない。降りたら、走るんだ、良いね。」
将臣の言葉に、絢子は黙って頷いた。
エレベーターは、小さいベルの音と共に五階で止まり、ドアーをあけた。絢子は、将臣に言われたとおり、廊下を走り院長室を通り越し、次のドアーの前で立ち止まった。
エレベーターのドアーを押さえ、下に降りて行かないようにしていた将臣は、絢子が部屋の前に着いたのを確認すると、エレベーターから降り、廊下を走って自分の部屋を目指した。
将臣の部屋のドアーを開けた絢子は、中に人がいることに気付き凍りついた。
「どうした?」
絢子の様子がおかしいのに気付いた将臣は、走りながら声をかけた。
絢子は将臣の方を振り向くと、無言で頭を横に振り続けた。
将臣がドアーのところにたどり着くのと、部屋の中にいる人物が振り向いたのは、ほとんど同時だった。
部屋の中の人物が振り向いた瞬間、絢子はその男が、儀式の時の最初の男だと感じた。
「非常に悲しい事だ。一族から裏切り者が生まれるとは。」
男は、あの時よりも、もっとしわがれた声で言った。
「なんで、あなたがここに・・・・・・。」
そう言った瞬間、将臣は後ろに人の気配を感じた。
振り向くと、政臣が立っていた。
「エレベーターを待つほど、私は間抜けではないよ。」
政臣は言うと、二人を部屋に押し込んだ。
「一族の政(つかさ)としては、この不始末をどうする?」
しわがれた声の男は言うと、絢子の手を掴んで引き寄せた。
絢子は抵抗しようとしたが、圧倒的な力の違いに、絢子の抵抗心はねじ伏せられそうで、体を動かす事はできなかった。
「一族の将(しょう)として生を受けたものが、一族を裏切るとは、情けない。」
政臣は言うと、将臣の事を殴り倒した。
「一族の預言者である私が、裏切りに気付かないと?」
男は言うと、絢子のお腹に手を当てた。
「やはり、多胎児か。」
男の言葉に、絢子も将臣も、体の力が抜けていくのを感じた。