MAZE ~迷路~
 居間では、有紀子が一人、お茶を飲んでいた。
「絢子ちゃんの様子は?」
 すっかり絢子の世話を敦に任せているのを有紀子は少し気にしていた。
「宝探ししてますよ。」
 敦は言うと、自分の湯飲みを取り出した。
「なんだか、複雑ですね。絢子ちゃんだってわかってても、美波と錯覚しちゃって。」
 敦は言いながら、いつもの席に腰をおろした。
「敦ちゃんは、絢子ちゃんだってわかるから良いけど・・・・・・。」
 有紀子は口ごもると、急須にポットからお湯を注いだ。
「研究室から、もうそろそろ復帰して欲しいって連絡があったの。でも、絢子ちゃんじゃ、仕事の内容わからないでしょ。それに、チームの人の顔もわからない。美波には可愛そうだけど、このまま退職させるしかないんじゃないかって思ってたの。それに、達海(さとみ)さんも帰ってくるのよ。」
 敦は、叔父の達海が帰ってくると言う事が、何を意味するか今まで気付かなかった自分に、思わず絶句した。

(・・・・・・・・おじさんは、何も知らなくて。美波は事故に巻き込まれたとしか知らないんだ。それなのに、絢子ちゃんを見たら、美波じゃないって気付いちゃうかも・・・・・・・・)

 有紀子は、敦に湯飲みを渡すと、大きなため息をついた。
 敦も、お茶を一口飲んでから大きなため息をついた。

☆☆☆

 美波の部屋で宝探しを続けていた絢子は、机の奥に隠してあった日記帳を見つけた。
「絶対、美波が毎日書いてるわけないんだ。」
 絢子は言いながら、日記帳を手に取った。

(・・・・・・・・どうしよう。私の知らない、美波の生活を知りたい。でも、それって良くない事かもしれない・・・・・・・・)

 絢子は躊躇しながら、日記を開いた。

『親愛なるティンクへ』

 日記はそう始まっていた。

『この日記を親愛なるティンクに捧げる。

この日記に書かれていることは、すべてティンクが知っているべき事であり、いつの日か、ティンクを探し出したときに、この日記を手渡したいと思って書き始めた。
もし、私の身に何かあった場合、および、ティンクの死が本当に確認されたときには、この日記を灰にして、ティンクのお墓に備えて欲しい。』

 読んでいた絢子の瞳が、再び涙で潤み始めた。

(・・・・・・・・美波・・・・・・・・)

 絢子は必死に涙を堪えると、日記を読み始めた。
 絢子の予想通り、美波は日記をつけるのが苦手なようで、毎日のように書かれていることもあったが、大抵の場合、一週間に一度、ひどい場合は、数ヶ月の間隔があく事もあった。
 最初の数ページにわたり、美波の知っている絢子の誘拐・殺人事件の事が記されていた。

(・・・・・・・・そうか。哲が私を殺して、無理心中を謀ろうとしていたように仕組まれてたんだ。そして、哲も殺された。あの時、哲を助けたいかってきいたのは、全部嘘だったんだ・・・・・・・・)

 絢子は考えながら、思わず頭を横に振った。
 やがて、日記は事件の日の回想になり、美波がその日の夜、猛烈な腹痛に襲われ、救急車で病院に運ばれた事を書き記していた。

『でも、時間が合わない。ティンクが死んだとされるのは、あの日の午後、つまり、私の時間では早朝のはずなのに、私が痛みを感じたのは、まったく同じような時刻。ちょうど時差分のずれがある。』

 美波は、事件の発生時刻と、痛みの始まった時間の違いから、絢子が本当は死んでいないと、考え始めたようだった。

(・・・・・・・・そうか、眠らされて知らなかったけど、あれは、その日の夜だったんだ・・・・・・・・)

 絢子は美波の日記を読みながら、自分の記憶の整理をつづけた。
 もともと、絢子の為に書かれた日記と言うこともあり、絢子の事件の後は、小さなメモ程度の記録がつけられていた。
 中には、絢子が美波の所を訪れない事や、絢子の気配が完全に消えていないなど、普通の人が読んだら、美波の頭がおかしいとしか思えないような事が書き連ねてあった。
 絢子への思いに一段落がついたのか、やがて日記は間隔があくようになった。
 美波は、勉強に行き詰ったとき、試験の前で落ち着かないとき、日記に絢子への相談事を書いたりもしていた。そんな場合、『きっと、ティンクはやめた方が良いって言うよね。』といった、絢子が答えるであろう内容が、最後に書き記されていた。
 すべてに於いて、美波の予想が正しかったわけではないが、大抵の場合、美波が導き出した絢子の回答予想は、絢子の考えと一致していた。
 絢子はペンを取り出すと、美波の日記帳に自分の答えを書き込み始めた。

(・・・・・・・・いつか、美波がこれを読んだとき、私が美波の中にいたって事、美波に知ってもらいたい・・・・・・・・)

 絢子は、もくもくと日記を読み続けた。

☆☆☆

 美波は目を開けると、見慣れた天井に安心した。

(・・・・・・・・良かった。きっと夢だったんだ・・・・・・・・)

 美波は考えると、ゆっくりと起き上がって部屋中を見回した。
 掃除が嫌いなくせに、美波は物の位置が変わると気になる、シャーロック・ホームズのような、神経質なところがあった。

(・・・・・・・・ママ、本を動かしてる。本棚は触らなくて良いって言ったのに・・・・・・・・)

 美波は思うと、ベッドから降りた。
 体が全身凝っているようで、動くたびに筋肉が軋むような感じがした。

(・・・・・・・・やだ、運動不足かしら?・・・・・・・・)

 美波は考えながら、水を飲みに一階に下りていった。


 イギリスで暮らしていた頃からの習慣で、水道水を飲まない美波は、勢い良く冷蔵庫の扉を開けた。

「やだ、一本しか入ってない。」
 美波は呟きながらボトルを取り出すと、お気に入りのグラスにミネラルウォーターを注いで飲んだ。
「確か、買い置きがあったはず。」
 グラスに二杯、たっぷりと冷たい水を飲んだ美波は、台所の奥の箱から、新しいボトルを取り出すと冷蔵庫にしまった。

(・・・・・・・・ママが起きないうちに、静かに二階に戻らなくちゃ・・・・・・・・)

 美波は冷蔵庫のドアーを閉めると、足音を忍ばせて自分の部屋に戻った。


 ベッドに戻る前に、動いていた本を元の位置に戻すと、美波は再びベッドに横になった。

(・・・・・・・・でも、怖い夢だった。おじさんがティンクにあんな事してたなんて・・・・・・。あれも全部夢なのかしら? それとも、ティンクが私に何か知らせようとしてるのかしら?・・・・・・・・)

 美波は考えながら、あの気持ち悪い感触を思い出しそうになって、慌てて違う事を考える事にした。

(・・・・・・・・でも、どこから夢で、どこまで現実なんだろう。本当に、私と智、喧嘩したんだったっけ? なんだか、頭がぼーっとして思い出せない・・・・・・・・)

 美波は、そんな事を考えながら、再び眠りに落ちていった。

☆☆☆

 翌朝、冷蔵庫をあけた有紀子は、新しいペットボトルが入っているのに驚いた。
「絢子ちゃん、夕べペットボトルを冷蔵庫に入れてくれたの?」
 有紀子は問いかけながら、美波のお気に入りのグラスがテーブルの上に置いてあるのに目を走らせた。
「いいえ。冷蔵庫は、あけたことないです。」
 絢子は言うと、美波のお気に入りのグラスを手に取った。
「あ、これ。一緒にディズニーランドに行った時に買ったグラスだ。」
 絢子は言うと、懐かしそうに見つめた。
「絢子ちゃんが使ったのかと思ったわ。」
 有紀子は言うと、絢子の様子を伺った。
「違います。夕べはぐっすりで、それに、グラスは使ったら洗っておきますよ。敦さんじゃないですか?」
 絢子の言葉に、有紀子は美波が目覚めた事を感じた。

(・・・・・・・・間違いない。夜中に目覚めたのは、美波だったんだわ・・・・・・・・)

 しかし有紀子は、その事を絢子には言わないでおく事にした。
「絢子ちゃんは、ミネラルウォーター飲む?」
 有紀子の問いに、絢子は頭を横に振った。
「水道水で十分です。お兄さんは、ミネラルウォーター飲んでたけど。」
 言いながら、絢子は将(まさ)臣(おみ)の事を思い出して俯いた。

(・・・・・・・・お兄さん。私を助けようとしたばっかりに・・・・・・・・)

 俯く絢子の前に、有紀子は目玉焼きとトーストを置いた。
「絢子ちゃんは、何をかけるの?」
 有紀子の問いに、絢子は目の前に並んだ調味料の中から、ソースをとった。
「お醤油かと思ったら、おソースなの。」
 有紀子は驚いたように言うと、ソースをかけて目玉焼きを食べる絢子を見つめた。
「おはよう~。」
 敦の元気の良い声に、有紀子は開けたばかりのソースの蓋を閉めて、声のするほうを見つめた。
「おばさん、絢子ちゃん、おっはよう。」
 敦は言うと、ちゃっかりとテーブルに着いた。
「はい、敦ちゃん。」
 有紀子は言うと、目玉焼きの乗った皿を敦の前に置いた。
「いただきます。」
 敦は言うと、勢い良く醤油をかけ始めた。
「敦さん、お醤油かけるんだ。美波と同じだね。」
 絢子は言うと、目玉焼きをほおばる敦の事を見つめた。
「敦ちゃん、冷蔵庫の中のミネラルウォーター飲んだ?」
 有紀子は、自分の分の目玉焼きを作りながら、さりげなく敦に問いかけた。
「ごめんなさい。」
 敦は慌てて言うと、箸を置いた。
「この間、のどが渇いて持って帰っちゃいました。それで、新しいの一本、箱から出して冷蔵庫に入れといたんですけど、あれ、なんか特別なお水かなにか?」
 慌てる敦に、有紀子は苦笑した。
「いいの、たいした事じゃないの。ただ、なんだか本数が合わない気がして、ボケたのかなって心配になっただけよ。」
 有紀子は言いながら、目玉焼きを乗せる皿を出した。

(・・・・・・・・間違いない。美波はちゃんと生きている・・・・・・・・)

 有紀子は確信すると、焼きたての目玉焼きと共に、食卓の席に着いた。

☆☆☆

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