さまよう爪
聴こえないかと思ったが声をかける。

偶然か本当に聞こえたのか彼が振り返った。

こちらに気づいて「あ」という顔のあと、右手をあげてひらひらさせる。

穏やかな笑顔。

靴の音を立てながら人混みのあいだを縫って、何とか群衆から抜け出す。

「来てくれてありがとう小野田さん」

「こんばんは。すみません待ちましたか」

「ちょっとだけね」

その言葉通り彼の元にあるグラスの中身はちょっとだけ減っていた。

蛍光イエローのドリンク。

瀬古さんは何か飲む? と聞いてきたのでわたしはじゃあ同じものをと言った。

アルコールではなくパインジュースらしい。

甘酸っぱい味が口いっぱいに広がる。

「……おいしい」

「生のパイン使ってるらしいよ」

「へぇ」

「小野田さんは踊れる? ダンス」

「いいえ。あ、オクラホマミキサーなら」

懐かしい。マイムマイムもあったよね。瀬古さんは、ステージを親指で指差すと、

「一緒に踊る?」

いやいやいや。わたしは笑った。

「ありえない。わたしあれ、大嫌いだったんです」

「そうなの」

「うん。よく男子の足踏んづけてた。ひどい奴」

「そんな。悪い人じゃないって、その笑顔見たらわかるよ。すごくかわいい。わかる。小野田さんは性格最悪なんかじゃないって」

「うん、はっきり言って、わたしみたいな性格のいい女もそうそういないよ」

はっ全くこの女はどの口が言う。

「でしょ? わかってます」

2人は顔を見合わせて、ニターと共犯者のように笑った。

クラブは気を大きくする。
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