強引専務の身代わりフィアンセ
「美和?」

 突然、掠れた声で名前を呼ばれ、私は体を硬くした。混乱の中、身動ぎしていたので、彼を起こしたらしい。おそるおそる顔を上げると、薄明りの中、一樹さんが寝ぼけ眼ながらも心配そうにこちらの様子を窺っていた。

「どうした? 気分でも悪いのか?」

「い、いえ。すみません。ちょっと、怖い夢を見て」

 やや早口で私は静かに返す。そして咄嗟に口にした言い訳だったが、これを口実にベッドから抜け出そうと思った。けれど、行動を起こす前に、彼に強く抱きしめ直される。

「大丈夫。そばにいるから、だから、もう悪い夢は見ない」

 暗示のように強く告げられ、彼の温もりに包まれる。理由がはっきりしないままやっぱり私は泣きそうになった。

『思う存分甘やかしてやる。仕事だって忘れるほどに』

 彼がこうして甘やかしたい相手は別にいて、それが叶わないから、代わりの私に優しくしてくれるの? 

 だったらどうだというのか。最初から、仕事として代わりの婚約者をしているのに、今更の事実で傷つくなんて馬鹿すぎる。

 私は無意識にぎゅっと握り拳を作った。大丈夫。明日で彼の婚約者を演じるのも終わる。

 そのあとは、同じ会社とはいえ、接点のない専務とただの契約社員に戻るだけだ。そうすればこの特別な感情もきっと消える。消さなければいけない。

 それから私は一樹さんの言う通り、悪い夢を見ることはなかった。自分の中で寄せては返す波のような感情と格闘して、ほとんど眠ることができなかったから。
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