鬼の生き様

京都残留



 文久三年(1863年)二月二十三日

ついに浪士組は京の壬生村に辿り着いた。
この日の朝、京の町は驚天動地(きょうてんどうち)の大騒ぎが起こっていた。

前日に三条大橋下の河原にて晒し首が晒されたのである。

それもただの晒し首ではなく、木像の晒し首である。

この時期、天誅と称して外国との貿易にたずさわる豪商なども狙われ、川辺に惨殺された者たちの生首がさらされるということは多々あったのだが、今回は木像の晒し首ということもあって不気味な異様さを醸し出していた。

その首は、等持院(とうじいん)に安置されていた足利三代将軍、足利尊氏(あしかが たかうじ)、義詮(よしあきら)、義満(よしみつ)の木像の首であった。

 足利将軍とは、かつての幕府の頭領であった将軍だ。
徳川将軍の首に見たてての尊攘過激派、平田派国学者の一派による、徳川家茂の上洛への脅しであることは容易に分かった。

京の町には、過激浪士たちによる天誅行為が横行していたが、この事件もその激しさを幕府に見せつけるものであり、すでに手のつけられない状態になっていたということである。


さらに梟首(きょうしゅ)のすぐ近くには、斬奸状も立てられていた。

『逆賊足利尊氏・同義詮・同義満名分を正すや今日にあたり、鎌倉以来の逆臣一々吟味 を遂げ謀戮に処すべきところ、この三賊臣巨魁たるによって、先ずその醜像天誅を加えるものなり。
此の者どもの悪逆は、已に先哲の弁駁する所、万人の能く知る所にして、今更申すに及ばずと雖も、今度、此の影像どもを斬戮せしむるに付いては、贅言ながら、聊かその罪状を示すべし。抑も此の大皇国の大道たるや、只だただ忠義の二字をもって其の大本とする、神代以来の御風習なるを、賊魁鎌倉頼朝、世に出て朝廷を悩まし奉り、不臣の手始めを致し、ついで北条、足利に至りては、其の罪悪の実に容すべからざる、天地神人ともに誄する所なり。
今の世に至り、此の奸賊に猶ほ超過し候者有り。其の党許多にして、其の罪悪、足利等の右に出づ。もしそれらの輩、旧悪を悔い、忠節を抽んでて、鎌倉以来の悪弊を掃除し、朝廷を補佐し奉りて、古昔を償ふ処置なくんば、満天下の有志、追いおい大挙して罪科を糾すべき者なり。』

幕府を討つ、つまり討幕の過激浪士のやり方に、文久二年(1862年)閏8月1日より京都守護職に就任している会津藩主、松平肥後守容保(まつだいら ひごのかみ かたもり)は、討幕を考えている者も国を想っての行為だと寛大な態度をとっており、討幕派の言い分も聞こうと、『言路洞開(げんろどうかい)』という宥和政策をとっていたが、この事件には流石に堪忍袋の緒が切れた。

「ただの木像の首だと思うでないぞ」

その首を晒すという事は、将軍家に対する冒涜である。

「流石の余も我慢の限界じゃ。
許せん、この件に携わった者は即刻、厳罰に取り締まれ」

京都守護職会津藩本陣の黒谷金戒光明寺(くろたにこんかいこうみょうじ)にて松平容保は烈火の如く足利三代木像梟首事件(あしかがさんだいもくぞうきょうしゅじけん)に怒りを燃え滾らせていた。

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