淡雪
「何でそんなに気になるんだ」

 ややあってから漏れた言葉に、奈緒はちらりと上目遣いで黒坂を見た。

「そりゃ……。ほら、旦那様になるかもしれないお人の周りに、変な影があっちゃ気になります」

「旦那?」

 思い切り妙な顔で、黒坂が振り向いた。

「こ、小槌屋さんが出した条件です。父が借金を返せないなら、私は黒坂様に嫁ぐって」

 ああ、と黒坂が呟いた。
 その、いかにもしょうもないことを聞いた、という態度に、また奈緒の胸が痛む。

「んなこた本気にせんでいいっつったろ。俺にもそんな気はないしな」

 さらりと拒まれる。
 むっとし、奈緒は唇を噛み締めた。
 黒坂にその気がなくても、小槌屋が出した条件であれば、呑まざるを得ないだろうに。
 少なくとも、奈緒はそうだ。

「く、黒坂様は、私が廓に売られてもいいんですかっ」

 奈緒が怒鳴るように言うと、黒坂は少し驚いたような顔になった。

「黒坂様が私を拒むと、私は廓に売られてしまうかもしれないじゃないですか!」

「……小槌屋に限っては、それはないと思うがな。でも、それもしょうがねぇだろ。売られる娘なんざ、大半が親の借金だ。恨むなら親を恨めよ」

 突き放したように言う。

「黒坂様が小槌屋さんの言うことを聞いてくれればいいじゃないですか。雇い主でしょう? 断ることなどできるのですか?」

「俺が小槌屋に雇われてんのは、対談方としてだ。用心棒でもあるが、金の回収の条件に駆り出される謂れはねぇよ」

「そこまで私を拒む理由は何なんですか」

 意地になって言い募ると、黒坂は一旦口を噤み、はぁ、と鬱陶しそうにため息をついた。
 奈緒も、何故こんなにしつこく迫るのか、自分でもわからない。
 ただあくまで自分を拒む黒坂に腹が立った。

「俺には心に決めた女がいる」

 黒坂の言葉に、奈緒の顔が強張った。
 まさかこんな風に、きっぱり言われるとは。

「く、黒坂様に音羽花魁なんか、身請けできるわけないじゃないですか!」

 叫ぶなり、奈緒は階から飛び降りて、後ろも見ずに駆け去った。
 黒坂の心に、奈緒が入り込むことはできない。
 それを宣言されたようだ。

 ただそれが、何故こんなに悲しいのか。
 頭の中がごちゃごちゃのまま、奈緒は家まで走るのだった。
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