今宵は遣らずの雨

寿姫はその後、安芸広島新田(しんでん)藩の次代を狙う余計な後ろ盾がつかぬよう、十になる前に早々と許婚(いいなずけ)が決まった。

相手は、若くして因幡(いなば)東館(ひがしやかた)新田(しんでん)藩六代藩主になった、池田(いけだ) 澄時(すみとき)である。

だが、十七になって御公儀(江戸幕府)から江戸での御役目をいただけるようになった矢先、父を奪ったのと同じ流行(はや)り病に罹って、あっけなく亡くなってしまった。

次の許婚は、肥後(ひご)宇土(うと)藩六代藩主の細川(ほそかわ) 和泉守(いずみのかみ) 立礼(たつひろ)だった。

ところが、本家の肥後熊本藩の世継ぎの男子が次々と病没し、突如、肥後熊本藩八代藩主に就くことになった。

肥後熊本藩は石高およそ五十二万石の大藩である。石高三万石の支藩の娘を正室にするわけにはいかなくなり、解消されることになった。

その後、細川 越中守(えっちゅうのかみ) 斉茲(なりしげ)と改名し、石高百万石ともいわれる大藩 陸奥(むつ)仙台(せんだい)藩の藩主の血を引く出羽(でわ)亀田(かめだ)藩六代藩主の娘、八千姫(やちひめ)を正室に迎えた。

そして、寿姫は、ようやく年頃となった時分、出羽(でわ)新庄(しんじょう)藩 八代藩主である戸沢(とざわ) 上総介(かずさのすけ) 正親(まさちか)の正室として輿(こし)入れした。

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