今宵は遣らずの雨

「……瑞仙院さま」

初音の、声にならぬ呟きだった。

「初音、『たま』でかまわぬ。
わらわも、そなたを義姉上(あねうえ)とば呼ばぬからな」

瑞仙院はふふふ、と微笑んだ。

母親譲りの美貌だが、その気性には父親譲りの豪胆さがあった。

「なにを呆けておる。
そんな甘ったれた気概で、この安芸広島新田(しんでん)藩の御世継ぎになるやもしれぬ『ややこ』を産めるとでも思うのか」

さも子を産んだかのように云うておるが、瑞仙院は仲睦まじかった夫との子には恵まれなかった。

だが、気丈な瑞仙院は、周防徳山藩のためと心を鬼にして、嫌がる志摩守に半ば無理矢理、側室を持たせた。

側室との間には二人、子が生まれた。
だが、二人とも娘であった。

だれもがそのうちの一人に婿を取って藩を継がせるもの、と思うていた。

ところが、志摩守は病で死ぬ間際に、弟である毛利 大和守(やまとのかみ) 就馴(なりよし)養嗣子(あととり)にするよう云い遺していたのだ。

そして、二人の娘はいずれ、戸田(とだ) 大隅守(おおすみのかみ) 忠喬(ただたか)の側室と坪内(つぼうち) 美濃守(みののかみ) 定系(さだつぐ)の側室として輿入れさせるように、ともあった。

正室であった瑞仙院には、新しい藩主の大和守の後見役として、国許(くにもと)へは戻らず江戸に定府するようあった。

たとえ死しても、志摩守が愛しい瑞仙院を再嫁させたくない気持ちが、そこにはあった。

< 290 / 297 >

この作品をシェア

pagetop