言い訳~blanc noir~
 和樹の声が震えていた。

 声だけではない。千尋の腕を握るその和樹の手も微かに震えていた。


「……椎名さん?」

 まるで放心状態に陥っているかのような虚ろな目。顔から血の気が失せた和樹の額には薄っすらと汗が滲んでいる。

 千尋は目を瞬かせながら、和樹の手を両手で包み込んだ。


「椎名さん……どうされたんですか? 大丈夫ですか?」

 椅子に腰かける和樹の目線に腰を落としながら千尋が声を掛ける。


「あなたは誰なんですか……? 僕の事を知っているんですか?」

「椎名さん……? 落ち着いてください……。お水持って来ますね」

 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、グラスに注いだ千尋は冷たくなった和樹の手にグラスを握らせた。

「お水、飲んでください……」

 和樹がグラスに口をつける。



―――もうわけがわからなかった。

 一体自分の身に何が起こっているのか、この度重なる小さな偶然が本当に単なる偶然なのか、それとも、沙織の魂が千尋に憑依でもしているのか。

 もう今なら何だって信じられる。

 そう思えるほどに和樹の頭にあらゆる思いが駆け巡る。

 綯い交ぜになった支離滅裂な感情が和樹の胸を押し潰すように苦しめていた。


「私、何か変な事言いましたか……? ごめんなさい、椎名さん……」


「……すみません。ここのところ体調が良くなくて」


 グラスをテーブルに置きながら和樹は深く息を吐いた。


「顔が真っ青ですよ……。良かったらベッドで休まれてください」


「大丈夫です。今夜はこれで失礼しますので」


「椎名さん、少しだけ休まれてください。そんなに真っ青な顔で外に出るのは危険です。お願いですから、少しだけ横になってください」


 お願いというよりは懇願に近い必死の表情で顔を覗き込まれた。和樹は力なく頷くと「じゃあ少しだけ」と立ち上がる。



 千尋が寝室に向かいシーツを取り換えている間シャワーを使わせてもらった。全身に滲んだ不快な汗を洗い流したかった。

 少し熱めのシャワーを浴びた事で委縮していた魂の強張りが緩んだように感じる。脱衣所の扉を開けると洗面台の上に真新しいタオルと男物の黒いコットン素材のパジャマが用意されていた。


「あの、このパジャマはお借りしてもよろしいでしょうか?」


「サイズ大丈夫でしたか? そのパジャマ、先日見かけて購入したんです。胸の猫の刺繍が可愛くて。私もお揃いのもの買ったんですよ」


「……猫?」


 目線を胸元に向けると飾りポケットに白猫と黒猫が寄り添うようなデザインの刺繍が施されていた。


……これも偶然なのか?


 もうここまで偶然が重なると笑いが出そうになった。

 猫のデザインが施された物ならこの世にごまんとある。しかしなぜよりによって白猫と黒猫が寄り添っているデザインを千尋が選んだのだろうか。
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