言い訳~blanc noir~
「―――信じられない」


 両手で口元を覆った千尋が、そう呟くと言葉を忘れたかのように黙り込んでしまった。

 スタンドから零れる頼りなげな灯りが千尋の影を壁に映し出す。寝室は静寂に包まれ、春の夜風が微かに窓を揺らしていた。

 とても、静かな春の夜だった。


 沙織とクロの出会いから現在に至るまで。

 この10年間をたった数時間で語り尽くせるほど簡単な思いでもなく、きちんと千尋に伝える事が出来たのか、また、そうする事が果たして正解だったのか、それさえもわからなかった。

 もしそれが可能であれば、この事実は自分の胸の中に閉まっておきたい気持ちもあった。

 言葉にしてしまえば唯一自分の居場所であったあのネットの世界さえも失ってしまう事になる。

 そこは痛みも苦しみもなく、穏やかで優しい時間が流れていた。沙織とクロにいつでも触れていられる。和樹にとって掛け替えのない空間だった。

 誰にも触れさせたくない。

 そう思う気持ちとは裏腹に、まるで沙織とクロの意思がそうさせるかのように、気が付くとこの10年の出来事、そして、抱えて来た思いを、千尋に伝え始めていた。


「―――話してくれてありがとうございます」


 静寂を破るように千尋が口を開いた。

 千尋は落ち着きを取り戻したのか穏やかな表情で和樹を見つめた。


「こんな奇跡のような事があるなんて……。正直、何て言えばいいのかわかりません」

「……僕も同じ気持ちです。最初は小さな偶然が続いているだけだと、そう自分に言い聞かせてきました。だけどまさか10年前から千尋さんと知り合いだったとは夢にも思いませんでした」


 上半身を起こし壁にもたれた和樹は、出窓に飾られたシロの写真に目を向けた。真っ白で優雅な毛並み、キリリとした猫目は琥珀色だった。


―――クロ、お前、いい男見つけたな。

 胸の中でクロに話し掛ける。鼻ぺちゃで丸顔、雌のわりに大柄のクロは、顔に似合わず甘ったれた声だった。日溜りで居眠りするクロの姿を懐かしく、そして愛おしく感じる。

 見えないどこかの世界で、沙織とクロとシロは優しく、穏やかに暮らしているのだろうか。


「シロの写真を見た瞬間、心臓が止まるかと思いました」

「私は……その話を聞きながら心臓が止まるかと思いました」

 千尋が起き上がりながらくすりと笑った。つられて和樹も笑みを浮かべる。

 そして和樹と向き合うように、ベッドの上で正座した沙織は、和樹の手を握り上目を向けた。


「もう嘘をつきながら、言い訳を重ねながら生きるのはこれで終わりにしませんか? 私、今までの椎名さんがどんな人であっても気持ちは変わりません。それに椎名さんがこれ以上苦しくならないように、沙織さんとクロちゃんが私たちを導いてくれたのかなぁなんて。そんなふうに感じてます。稚拙な事しか言えなくてすみません」

 千尋の真っ直ぐな眼差しに和樹は寂しげに笑った。

「僕はこの10年、最低な生き方をしてきました。嘘をつく事も女性を騙す事も何ひとつ抵抗なく。そうする事が自分にとって当たり前のようになっていました。千尋さんとの結婚に関しても僕はあなたに嘘を―――」


「私を愛していない事くらいわかってます」
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