言い訳~blanc noir~
 沙織にしては珍しく笑顔も見せず、きっぱりとそう言い切った。


 幸せを求めない人間がいるのだろうか。


 何が幸せなのか、そんなものは人それぞれ考え方が違うだろう。

 平穏無事な生活こそが幸せだと言う人間もいれば、有り余る富と名誉を手に入れる事こそ幸せだと言い放った大手企業の社長もいた。

 和樹の母親は子供の幸せが私の幸せだと口癖のように言っていたのを、ふと思い出した。

 じゃあ俺にとっての幸せとは一体何なのか? そんな事をぼんやりと考えてみたが、和樹の答えは見つからなかった。


 ただ、沙織と一緒に過ごす僅かな時間は精神的に満たされる時間であり、沙織の笑顔を見るだけで気持ちが穏やかになるのは確かだ。


 少なくとも沙織と一緒にいるときに自分が不幸であると感じた事は一度もない。

 むしろ幸福感のようなものを得ていた。


 そう思うと沙織の言葉に胸が締め付けられた。


―――沙織は俺と一緒にいても幸せではないという事か。



「ご主人様、申し訳ないんだけど、一度ご主人様の部屋に寄って行ってもいいですか?」


「え? 構いませんけど」


 沙織のアパートに到着する直前だった。沙織からまさかそんな言葉を言われるとは思っていなかったため少し嬉しく感じた。

 しかしふと美樹の姿が頭によぎる。


「沙織、すみません。ちょっと車で待っててもらってもいいですか? すぐ戻りますから」


「はい。どうしたんですか?」


「ちょっと」


 沙織は普段通り、それ以上は何も訊かなかった。いつも沙織はそうだ。和樹が言い淀むと、それ以上は何も訊かないし、触れてくる事もない。

 それがラクだと言えば確かにそうだが、どこか寂しく感じる事もあった。


「ちょっと行って来ます」


「はい」


 マンションから少し離れた場所に車を停車させ、和樹は小走りでマンションに向かった。

 するとエントランスでしゃがみ込んでいる美樹の姿をすぐに見つけた。


「美樹ちゃん」


「椎名さん……」


―――やっと会えた。

 美樹の顔がくしゃりと歪んだ。

 すぐに立ち上がった美樹は、かじかんだ手にはあっと息を吹きかけた。

 美樹は……何時間ここにいたのだろうか。

 鼻先が真っ赤に色付き、鼻をすすらせている。美樹の顔色は白く、見るからに冷え切っていた。


「こういうの迷惑だって言っただろ? どうしてここにいるの?」

 そんな言い方……言いかけた美樹は口を閉ざす。


 冷たい言葉と愛情が感じられない和樹の表情に美樹はそっとまつ毛を伏せた。


「会いたかったの……ごめんなさい」
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