檸檬の黄昏
「来週、出張がある」
自宅へ戻る帰り道、運転をしながら耕平が口を開いた。
「え?でも事務所には何も」
「よくある知り合いのツテだ。事務所を通せとは、云ったんだがな」
「そうだったんですか」
茄緒が答え、耕平は口元に笑みを浮かばせた。
「うるせえ社長がいなくなって、せいせいするだろう?」
「耕平さんこそ、わたしみたいなのと顔を会わせなくていいんですから、怒らなくて済みますよね」
嫌味を交えて茄緒が返す。
いつものように素っ気ない、短い返答を予想していた茄緒だったのだが。
「……悪かった。昨日は云いすぎた」
耕平が云った。
茄緒は驚き耕平に顔を向ける。
まさか、それを云うために耕平は……
茄緒は正面に顔を戻す。
「いいえ。……耕平さん、怒ることがあるんですね。それがびっくりしました」
信号が赤になり、停車する。
「耕平さんや敬司さんを、信用していないわけがありません。その逆です。事務所の仕事、すごく気に入っています。家も場所も。その、わたし……」
茄緒は口ごもったが、意を決したように口を開く。
「前の夫とは七年付き合った期間があって、結婚一年で別れたんです。でもまた、夫が来るような気がして。だから、ずっと同じ所に止まることに抵抗があって」
耕平は無言で訊いている。
「今はそうじゃないって、わかっています。耕平さんと敬司さんは上司で状況は違います。個人的なことを混同してしまって、ごめんなさい」
信号が青になり、車は走り出す。
「それだけあんたのトラウマが大きかった、ということだな」
耕平は前を向いたまま云った。
茄緒は首を横に振る。
「いいえ。わたしが弱かったからです。もっと、しっかりしないといけないのに」
茄緒は云った。
「もう少し今の家で契約までは頑張ってみます。借家とはいえ、せっかくの一軒家ですから。いずれは、自分の家を持つことが目標なんですよ、わたし」
アルバイトのくせにと、笑わないで下さい、と茄緒は続ける。
「小さな家を買って、ワンコやニャンコと暮らしたいなあ、なんて思ってるんです」
恥ずかしそうに夢を語る茄緒の言葉に、耕平は耳を傾けている。
「まだまだ先の話しですけど。耕平さんと敬司さんの会社、それまでは手伝います」
茄緒は云った。
耕平は何も云わなかったが、満足したようだった。