御曹司は偽婚約者を独占したい
「中学生になったときに、自分のお小遣いを使って、父が淹れてくれたコーヒーを飲んだんです」
「お小遣いを使って?」
「はい。ずっと、お客さんになってみたかったんですよね。だから常連さんの真似をして、生意気に、〝おまかせで〟って注文したんですけど……。そのときに父が淹れてくれたコーヒーが本当に美味しくて、自分もいつか、こんなコーヒーを淹れられる人になりたいと思ったんです」
『私、お父さんみたいなバリスタになりたい』
瞼を閉じればいつだって、私が初めて夢を告げたときの、父の嬉しそうな顔を思い出すことができる。
「そんなに、美味しいコーヒーだったのか」
「はい……。味は、もちろんなんですけど。父は、その人の顔を見て、今、その人に必要だろうと思う一杯を淹れることが得意だったんです」
「お客の顔を見て?」
「はい。だから私が初めて飲んだ父のコーヒーは、ミルクたっぷりのカフェ・ラテでした」
言いながら、瞼を閉じて息を吐く。
思い出の中にあるのはエスプレッソの渋い苦味と、温められたミルクの素朴な甘さだ。
「それをコーヒーと言えるかわからないけど、不思議と、今でも忘れられないんです。深い苦味の中に溶けるような甘さがあって、飲み終わったあとは身体と心がポカポカと温まるような──幸せな味でした」
『どうだ? お父さんのコーヒー、美味しいだろう』
カフェ・ラテの入ったカップ越しに見た父の誇らしげな笑顔は、今でも目に焼き付いている。
両手を唇の前で合わせながら当時を思い出したら、自然と顔が綻んでいた。