この溺愛にはワケがある!?
本宅の書斎で行政はレコードを聞いている。
七重と初めて行った喫茶店でかかっていた曲。
その有名な映画のテーマ曲はもう何十回も繰り返されていた。
それほど聞くのであればレコードをやめてデータにすればどこでも聞けるだろう?
と、周りの者は笑った。
確かにこの御時世、レコードなど化石のようなものだ。
だが、行政は他のものに変えようとは思っていなかった。
それはあの時と同じ、プツンプツンと飛ぶ針の音が、思い出の中の七重を呼び起こすからであった。

緩慢にソファーに座り目を瞑る。
そして、愛した人と、その人の綴った文字の一つ一つを思い出す。
七重の思い、七重の決意、七重の選択。
その全てを行政は今完全に自分のものに出来た気がしていた。

行政はずっと七重に愛想をつかされたと思っていた。
嫌われて別れを切り出されたのだと。
そして、その悔しさをバネに死ぬほど働いた。
働いて、一心不乱に働いて、漸くここまで会社を大きくしたのだ。
どこかで暮らしているだろう七重に見せつける為もあったのかもしれない。
逃がした魚は大きかったと、七重が悔しがる様を見たいとも思っていた。
しかし、そんな思いはある手紙で粉々になる。
その手紙は七重からの最後のお願いであった。
それを見た途端行政の中の何かが崩れ去る。
自尊心、嫉妬、虚栄……そんなものが一度に砕け、残ったものは後悔だけだった。
会いに行けば良かった、二度と会えなくなるなら、意地など張らずに……。
そして、こうも思った。
こんな小さな男など愛されなくて当然だ、と。
しかし、まだ出来ることはある。
彼女の孫を幸せにすること、それは行政を頼って最後に手紙を寄越した七重へ示せるただ一つの愛だったのだ。

思い出の曲を聞きながら、行政は夢の中にいる。
優しくて暖かくてとても美しい夢だ。
悩みながらも綴られた七重の日記の中には、行政に対する愛情で溢れていた。
キラキラと輝く美しい想い。
愛されていた、自分が想うよりもはるかに深く。
行政は七重を信じられなかったこと、一度でもその愛情を疑ったことを恥じた。

ーー曲が終わった。
行政はゆっくりと目を開け立ち上がり、レコードプレイヤーの元へと向かう。
もう一度、と思ったその時、誰かが扉をノックした。

「誰だ?」

少し棘のある声で返すと、聞きなれた竹を割ったような声が響く。

「わたくしです、入ってもよろしくて?」

「は……何だ……案外折れるのが早かったな……入りなさい」

小夏は音もなく部屋に入った。
そして、ゆっくりとソファーに座り静かに言った。

「七重さんの日記を見ましたわ」

「そうか……」

「………わたくしずっとあなたとの間に距離を感じていました。それはあなたも同じですわよね?……ですが、今日七重さんの日記を見て、その距離を埋める必要なものがわかった気がするの」

「必要なもの?」

そう返しながら、行政はレコードの針を最初に戻した。
思い出の曲はまた再生され、ピアノの音が流れ出す。

「ええ、七重さんよ。あなたとわたくしのその間に必要だったもの……」

「…………ああ……そうか……そうかもな……」

行政は目を細めながら、何もない空中を見上げ静かに頷いた。

「だから、あなたと一緒にこれからも七重さんのことをたくさん語りたいわ。だってもう……あの頃の彼女のことを話せるのはあなたしか残ってないのですもの」

「………それは名案だ……じゃあ私から話してもいいかな?」

屈託なく笑う行政に、小夏もとびきりの笑顔で答えた。

「ええ!もちろんよ!でも……わたくしの話も聞いて下さるわよね?」

「はは……是非。私の知らない彼女を教えてくれ」

「仕方ありませんわね。これはわたくしと七重さんのとっておきの秘密なのですが……特別に教えて差し上げます」

老夫婦はお互いに笑い合う。
それは、少しおかしな愛の形。
でも、確かに繋がれた信頼の形でもあった。
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