15年目の小さな試練
「ああ、今年は修士論文書くくらいで、俺は就職活動もないし」

 そう。修士論文の内容はもう決まっているし、就職先も親父の意向で決定済み。長期でやってるバイトもないし、時間は割とある方だと思う。

「ピアノを教えるってのも、いい経験になりそうだし、むしろすごく嬉しいよ?」

「いい経験?」

「親父の跡を継がなきゃとか、そう言うのがなかったら多分、俺、ピアノの先生か、小学校の音楽の先生になってたと思うの」

 その言葉を聞くと、ハルちゃんの目が大きく見開かれ、満面の笑顔が広がった。

「すごい! 晃太くん、ぴったし!」

「そう?」

「うん。すごく優しい先生になってそう!」

「ありがとう。……でも、まあ、そう言う未来が来る予定はないから、一度くらいは経験したいなって」

 教職は一応取ったし、実習も行った。だけど、うちの学部で取れるのは社会の教員免許だから、俺が音楽の先生になる未来はない。音大ではなく杜蔵の経営学部を選んだ時から、それはもう決まっている。

 自分で決めたことだし後悔はないけど、教えてみたい気持ちがないわけではない。

「どう? 素人のくせにピアノを教えてあげるなんて、おこがましいけど」

「ううん! とんでもない。でも、わたしで、いいのかな?」

「もちろん」

 むしろ、ハルちゃんくらい素直な子じゃなきゃ面倒だ。

「じゃあ、来週からでいいかな? 6時くらいにハルちゃんちに行くね」

 ハルちゃんはもう遠慮することなく、嬉しそうに

「よろしくお願いします」

 と頭を下げた。

 その後は、また叶太の空手見学に戻る。
 結構長くおしゃべりしてしまったから、前半はほとんど終わりかけていた。

 ハルちゃんはその日、叶太が切り上げてくるまでの間、とても優しい視線を叶太に向け続けていた。
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