北向き納戸 間借り猫の亡霊 Ⅰ
 目に浮かぶのは、揚げたてを前カゴに載せて自転車をこぐ凛乃だ。長いままの髪型を修正するために、もう一度、実物の凛乃を見た。夕飯は7時という約束にはぜんぜん遅れていないのに、累が起きているから、ちょっと焦っているらしい。手を動かしながら、横にいる累をちらちらと見る。
「いろいろ試食させてもらったんですけど、どれもおいしくて買うもの決めるの、たいへんでした」
「そう」
「来月に入ったら季節限定で枝豆コロッケが出るらしいです。すごく気になるんですよね。たまになら、フライ系OKですか?」
「いつでも」
「はーい」
 凛乃が弾んだ声で返事する。大根が細切りにされていくリズミカルな音。美味しそうな揚げ物の匂い。うつむきかげんの凛乃の、さらさら揺れる髪。
「うん、好き」
 つぶやいたことばは凛乃に届かずに、累の口の中で淡く消えた。

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