北向き納戸 間借り猫の亡霊 Ⅰ
 一瞬、意識が空白に凝縮した。空きっ腹で大好物の匂いを嗅がされたような、全本能がそちらに持っていかれる感覚。
 でも凛乃は、急いで心に膜を張った。そこはかとない累の好意が浸透しないように。
 こんなの、わたしが累さんを好きだから奥まで刺さっちゃっただけだ。累さんは好きだの惚れただの、ひとことも言ってないし。
 人を寄せ付けなかった累に、他人が居ても心地いいと思ってもらえたなら、家政婦として有能だと胸を張っていい。でもいままで料理や掃除に打ちこんできたのは、いま以上にいい条件で累の善意にぶらさがるためじゃない。抑えきれずに何度も口にしそうになった気持ちを押し殺したのは、好きだといったあとに家を売れと求めたら、家欲しさに色仕掛けにかかってると思われるからだ。
 しっかり稼いで独り暮らしを再開できてこそ、やっと損得抜きの自分も評価してもらえる。そのときまでは、累の言葉を都合よく受け取るのは、ずるい。
 表情筋を総動員して、凛乃は声をたてて笑った。
「わたし、猫じゃないですから」
 累の真剣さをうやむやにするには、冗談にしてしまうしかなかった。
< 167 / 233 >

この作品をシェア

pagetop