シンデレラの網膜記憶~魔法都市香港にようこそ
「私に別れの呪文を言ってください。そうすれば、いやがおうでも魔法が解けて、もとの世界に戻れますから」

 そう言うエラの真剣な瞳に、タイセイの胸は締め付けられた。
 しばらくして、彼の口から絞り出すように声が漏れた。

「さようなら…エラ…元気で」

 彼女は、微笑みとも苦痛とも思えるような表情を浮かべると、片手を挙げて小さく振る。

「さようなら…ドクター…」

 エラはタイセイに背を向けると、湖に身を投げるように階段を駆け下りていった。

 こうして香港のシンデレラは、地下鉄の闇の中に消えたのだった。おとぎ話では、この後彼女が階段に残したガラスの靴を手掛かりに、王子が探しに行くのだが、香港のシンデレラは地下鉄の階段に、何か証拠を残すようなことはしなかった。
 だが本当に定められた男と女というものは、そんなものがなくてもまた巡りあう運命なのである。


〈九龍城砦〉

「平凡な眼科の研究医が、なんでその…中国のCIAとやらに尾行されなければならないのかしら?」

 ひとりごとのように思わずモエの口に出た問いだが、ドラゴンヘッドは親切に拾ってくれた。

「そんなこと、わしらがわかるわけがあるまい。おたくの息子がこの香港でスパイ活動でもしたのなら話は別だが…」
「タイセイがスパイですって!」

 モエは思わず立ち上がった。
 テーブルの上でぎゅっと握った震えるこぶしを小松鼠がなだめるように、その手で包み込む。モエはその優しさに我に帰って、自信なさそうにつぶやいた。

「タイセイに限って、そんなこと…」

 ドラゴンヘッドが笑い出した。

「おやまあ…いつも強気のあんたが、俗世間の母親同様に『我が子に限って』なんて言いだすとは思わんかった」

 ドラゴンヘッドの皮肉に、プライドが蘇ってきたようだ。モエは胸を張って果敢に言い返す。

「でも…尾行されているのが、一緒に連れだって歩いている女性だって可能性も、否定できないでしょ…」
「まあ、そういうこともありうるが…」
「タイセイはきっとその女のせいで何かに巻き込まれたのよ…その女、いったい誰なのかしら…キャッ」

 思わず悲鳴をあげるモエ。彼女をこのキッチンへ導いてきたあの暗い男が、知らぬ間に彼女のそばに立っていた。

「脅かすのはやめてちょうだい」

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