アフター5はメガネをはずして
電車のドアの手すりにもたれ、窓の外に流れる灰色の風景に目をやる。
ともすれば“本当に大丈夫だろうか?”と不安に陥る気持ちを、一生懸命奮い立たせる。
ここまで来て、落ち込んでいる場合じゃない。
今から心配したって、なんの得にもならないのだから。
緊張のしすぎで、いつもより何もかもに過敏になっていた。
何とか落ち着こうと、用もないのにスマホを適当に操作していると、降りるべき駅の名前がアナウンスされる。
電車が大きく揺れて駅のホームに停車し、ドアが開くなり車内の人がドッと動く。
私はうねる人並みに流されながら、目指す出口へ向かった。
(一体どこにあるの……)
あかりさんから届いたメールと駅構内の表示を交互に眺め、行くべき目的地を探す。
地下鉄の大きな駅はどこも複雑に入り組んでいて、出口をひとつ間違えただけで、かなりの時間をロスする羽目になってしまう。
約束の時間は午後7時。
本格的にお店が人でにぎわうのは、午後10時過ぎから終電がなくなる時間帯、午前1時までだそうだ。
いくら知り合いのお店とはいえ、給料をもらって働くのだから、いかなることがあっても遅刻することは許されない。
ましてや今日は、記念すべき初出勤の日。
遅くても5分前には、お店に到着していたかった。
クラブやキャバクラといった水商売は、出勤時間が通常の会社員より圧倒的に遅い上、業務上アルコールを取り扱うため、遅刻や欠勤には厳しくなさそうにみえる。
でも、小さな頃から母が真面目に働く姿を見てきた私だ。
いくら昨夜のお酒が体に残っていても、帰宅するのが明け方であったとしても、1日も休まずに12年間、銀座に勤務し続けた母を一番近くで見ている。
そんな母の面子のためにも、遅刻は絶対に許されない。
私は地下のコンコースを早足で駆け抜けると、まっすぐにあかりさんのお店を目指したのだった。
< 22 / 26 >

この作品をシェア

pagetop