意地悪な副社長との素直な恋の始め方
「子どもだった芽依にはっきりした記憶はなくても、身体は憶えている。怒鳴り声、何かが壊れる音、悲鳴――。芽依は、見ているこちらが苦しくなるくらい、常に周囲の人間の顔色を窺っていた。イヤなことがあっても、どんなに具合が悪くても、自分からは何も言わない。本当は甘えたくても、実の父親にされたように、疎ましがられ、拒絶され、突き放され……殴られるかもしれないと怯えていたんだ」
暴力をふるわれた記憶は、簡単には消えない。
信頼していた相手であれば、受ける傷はさらに深くなるだろう。
「小学生の頃、通学途中で待ち伏せしていた実の父親に遭遇した芽依は、その日を境に外へ出られなくなった。むこうは、単に娘の顔を見たくなっただけだと言っていたが、芽依にとっては恐怖でしかなかったんだ。中学から女子校に通わせていたのも、車で送り迎えしていたのも、二度と同じ経験をさせないためだった」
わたしが芽依に出会った時には、そんな様子はまったくなかった。
いまだって普通に働いている。
海外で働いていれば、日本人よりも体格のいい男性は多いし、恐怖を感じることだってあっただろう。
もし、克服していないなら、芽依が受けるストレスは計り知れない。
「……いま、は? もう大丈夫なの?」
「父親が死んだからな」
「え」
「芽依が大学に入学して間もなく、急な発作で倒れて亡くなった。オヤジが一応香典は送ったみたいだが、芽依は葬式にも、納骨にも行かなかった。その翌日から、送り迎えはもういらないと言って、普通に公共交通機関を使って大学に通うようになった」
「…………」
「相手の死によって解放されるのは、克服とは言えないのかもしれない。だが、それでも芽依が自分の生きたいように生きられるのなら、それが正解だと思う」
「……うん」
わたしの母親は、あれだけ結婚と離婚を繰り返していながら、一度も別れ話で拗れたことがなかった。
見る目があるとは思わないけれど。
パートナーは、必ずしも甲斐性のある男性ではなかったけれど。
コウちゃんと夕城社長を除き、父親(仮)や母親のカレシという存在に優しくされた記憶はないけれど。
暴力を振るうひとや暴言を吐くひとは、ひとりもいなかった。
歪な家庭環境ではあったし、寂しい思いもしていたけれど、自分の幼少期を「不幸」だと思ったことは――その記憶から逃げ出したい、忘れたいと思ったことはない。