あなたとはお別れしたはずでした ~なのに、いつの間にか妻と呼ばれています~
緑の煌めく草原にポツンと座り、見上げる程大きな白樺の木を熱心に写生していたのが和花だった。
自分の世界に浸っているらしく。樹が近付いてもまったく気にとめていないようだった。
スケッチに集中する彼女の姿を、ただ美しいと思った。
外見ではなく、一心に画用紙を見つめる瞳がキラキラと輝いているように見えたのだ。
『上手だね』
我ながら陳腐なセリフだと思ったが、彼女に声を掛けたくて必死に考えた。
大学では結構女の子たちと気安く付き合っているのに、いざとなったら残念過ぎて自分でも笑えた。
彼女の絵をそっと覗き込むと、振り向いた彼女と目が合った。
驚いた表情の彼女。その瞳はとても澄んでいた。
(綺麗だ)
デッサンスクールに通っている大翔の親しい友人だとわかった時、どれだけ心が弾んだことか。
それからは相手は高校生だし、どうやって誘おうか思いを巡らせたものだ。
彼女を前にすると、進むべき道を決めあぐねた自分の心のイラつきがとても醜く思えた。
(彼女の瞳に映る自分は、いつも正直でありたい)
そう決意して、父や祖父だけに囚われず勉強することにした。もう迷いはなかった。
和花と会うたびに六歳の年の差がもどかしくもあったが、いよいよ彼女が大学生になると他の男に取られたくなくて交際を申し込んだ。
彼女のご両親にも喜んでもらって、正式に付き合い始めた。
法科大学院に進み、司法試験にも受かった。あの頃は、人生は順調に進んでいると思っていた。
樹はあえて、父親の事務所には入らなかった。両親は煩かったが、武者修行だと惚けておいた。
彼女の父親があの事件に巻き込まれるまでは、すべてが樹の思いのままだった。