あなたとはお別れしたはずでした ~なのに、いつの間にか妻と呼ばれています~



***



季節が初夏に変わる頃、樹はロンドンに来ていた。

「武中さん、ロンドンにはお詳しいんですか?」
「いや、そうでもないさ。久しぶりだよ」

「武中さんニューヨーク派ですもんね」


樹は部下の井上省吾(いのうえしょうご)とふたりで、黒塗りのロンドンタクシーに乗っている。
バッキンガム宮殿の近くを走り抜け、車はハイドパークから北へ向かいロンドン医療センターを目指していた。

まもなく六月を迎えるロンドンは、気候もよくなり観光シーズンが始まるところだ。

(そうだ。大学院の卒業前に、ハネムーンの下見に来たんだった)

あの頃は、司法試験に合格したらすぐさま和花と結婚しようと思っていた。
ハネムーンは和花の好きなイギリスにしようと、行きたい場所をふたりで相談していたことを思い出す。

『やっぱり、湖水地方は欠かせないと思うのよ』
『エディンバラまで、足を延ばしてもいいんじゃないかしら』

まだ大学に入ったばかりだった和花は、幼い頃から好きだった絵本や話題の映画の舞台となった場所を見たがっていた。

『でも、樹さんと一緒ならどこでもいいのよ』
『お休み十日も取れないなら、無理しないでね』

微笑んだり、考え事をしたり、気を遣ったりすると、和花の表情はクルクルと変わった。
それを見ているだけで、幸せな気持ちになれたものだ。
仕事の時以外はあまり喋らない樹に、飽きもせず和花は話しかけてくれたことを思い出す。


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