あなたとはお別れしたはずでした ~なのに、いつの間にか妻と呼ばれています~
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「申し訳ございません、武中様」
晃大は如才なく、樹に挨拶した。
「奥村は、つい先ほど外出いたしまして不在でございます」
穏やかに伝えながらも、晃大はしっかりと樹を見つめていた。
玲生の父親だと思うと、つい心が乱れそうになる。
「そうですか。あなたは確か、岸本さんでしたね」
「はい、随分前に奥村の画廊でご挨拶させていただいたと思います」
もう何年も前のことだ。
晃大は新進気鋭の画商と言われ始めていた頃で、樹は和花の恋人だった。
「覚えています。まだ、圭介氏がご健在でしたから」
おそらく樹も遠い日を思い出しているのだろう。
ふたりがあった時、この場所は『画廊 奥村』だったし、和花は美大の学生だった。
「それでは、また出直してきます。和花、いや、奥村さんによろしくお伝えください」
「承知いたしました」
晃大はギャラリーから出て行く樹を丁寧に見送った。
その後姿は、ピンと背筋が伸びて迷いがなさそうだ。
(きっと彼は和花を忘れていないんだろうな)
晃大も内心では、樹がなにを言い出すのか不安だった。
なにしろ和花には玲生という彼の息子がいるのだ。子どもの存在に樹が気がついているかどうかもわからない。
もし樹が玲生の存在を知っても、自分の子どもではないと拒否したら。
樹が和花と復縁する気がないと言ったら……。
晃大はとっくに覚悟を決めている。
和花と結婚して、玲生を戸籍上の我が子にしてもかまわない。
和花と形だけの夫婦であっても、ふたりで玲生を育てていけばいい。
(すべて、和花の気持ち次第だ)
ビルから樹が運転する車が見えなくなるまで、晃大は画廊の前に佇んでいた。