腹黒梨園の御曹司は契約結婚の妻を溺愛したい
「左右之助さんは、この結婚が歌舞伎役者として必要なことで、それ以上でも以下でもないと思ってるのかもしれないけど、私にはやっぱりそう思えない。結婚するからには、ちゃんと夫婦になりたいです。籍は入れていなかったけれど、桜左衛門とお母さんみたいに」
実際にふたりが生活を共にすることはなかったし、一緒にいる姿を見たわけじゃないけれど、今でも気持ちが繋がってるんだなっていうのはお母さんから常々感じていた。

亡くなってからも心の支えになって、深いところで繋がっている……そんな関係、すごく理想的だなって。形はきちんとした夫婦で一つ屋根の下に暮らしているけれど、気持ちが何も伴わない。そんな空虚な関係に比べたら、よほどそっちの方がいい。

だけど……私たちにはやっぱり無理な話なのかな。
左右之助さんにとっては、この結婚は歌舞伎役者として必要なパーツの一つでしかないのかな。形式さえ整っていれば、そこになんの思い入れもないのかな。

「なんだ、そういうことでしたか」
なんだとはなんだと突っかかりそうになったけれど、彼は続けて意外な言葉を放つ。
「日向子さんは僕と結婚するのが嫌なんだと思っていました。実際、結婚まで強引に進めてしまったし、嬉しそうな顔を見たことがなかったですし」
ようやく得心したというふうに、左右之助さんが呟く。

「結婚が決まってから笑ったのは、先ほど七さんに対してだけです。僕は貴女の笑顔を初めて見ました」
「夫に騙し打ちにされたのに笑えるわけがないでしょう」
「呼び方も、芸名に戻っています」
「そりゃ、きっかけがなかったというか、なんというか」
玄兎さんって呼んだのはベッドの中だけだもん。しかも、恥ずかしすぎてなるべく思い出さないようにしているのに、いきなり慣れるわけがないじゃない。
「貴女なら、結果的に協力してくれたのかもしれなかった。でも……僕には」
左右之助さんの顔から、徐々に血の気が引いていく。
「左右之助さん?」

「時間が、なかった……」
長身の体躯がぐらりと傾いた。
「左右之助さん!」

──熱い
慌てて支えた身体から感じる熱に、息を飲む。
「僕には、時間がなかった……結果的に、じゃ、ダメ……で」
「分かった、分かりましたから!」
「確実に、ことを運ぶには……もう、これしか」
「しゃべらないで!!」

明らかに普通の熱さじゃない。どうにかソファに座らせると、ドアを開けて声を上げた。
「左右七さん、八重さん!誰か来てください!!」
廊下の向こうから足音が近づいてくる。ほんのちょっとの時間なのに、左右七さんたちを待つ時間が驚くほど長く感じた。
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