冷徹外科医と始める溺愛尽くしの政略結婚~不本意ながら、身代わりとして嫁ぎます~
 出かけと帰りの挨拶は相変わらず心の中でしか返せていないが、それでも自分がその声に不必要に息を潜めようとは思わなくなった。ただ静かに、邪魔にならなければよいと少しだけ気を楽にできている。

 半面、家で食事を食べてくれる日が多いのは嬉しいが、それだと本命の女性の元へ行けてないのではと、少々申し訳なくなってしまう。

 魚を焼いている間に、おひたしを作る。
 毎日和食ばかりであまり代わり映えしないが、これが母と暮らしていた頃の日常だった。メニューについて彼からは特になにかを言われるでもないから、このままでいいのだろう。

 準備を終えて一矢さんを呼ぼうと、リビングの入口に向かう。ここから大きめの声で呼べば聞こえるだろうか?
 そこまで考えて、はたと気づく。一体なんと呼べばよいのかと。

「一矢、さん?」

 そっと小声で呟いて、すかさず首を横に振った。
 心の中ではそうしているとはいえ、実際に声にして呼んだことは一度もないのだ。さすがにハードルが高すぎる。
 でもまさか、「緒方さん」とは呼べない。

 私たちは夫婦でありながら、それらしい生活などいっさいしていない。こういう関係でどう呼ぶのが正解なのか……。


「で、できました」

 しばらく悩んだ結果ひねり出したのは、明らかに逃げを打った言葉だった。
 ちゃんと聞こえただろうかと耳を澄ますも、彼の部屋の扉が開く様子はない。

「用意が、できました」

 さらにもう少しだけ声を張ると、「ああ、ありがとう」とやっと返事があってほっとした。

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