メール婚~拝啓旦那様 私は今日も元気です~
その時、灯里は、ヤマダの背後に黒いキャップを目深にかぶり、黒ずくめの服を着た男が立っていることに気づいた。
いつからそこにいたんだろう。意図的に気配を消していたのか、全く気付かなかった。
近すぎる距離に違和感を覚えたとき、男はドンとヤマダに体当たりをするようにぶつかった。
「くっ」
うめき声をあげ、ヤマダは灯里に倒れ掛かり、灯里はとっさに大きな体を受け止めた。
「おまえが悪いんだ!おまえのせいで俺はっ…」
ヤマダの体越しに見える男は震えながら、血の付いたナイフを握り締めていた。
「キャーーッ!誰かっ、誰か来てっ!」
灯里の両手にぬるっとした温かい感触がする。
「ヤマダさんっ、ヤマダさんっ!」
灯里は小さな体でヤマダを支え続けた。
「おまえが悪いんだからなっ!」
男は最後にもう一度叫び、二三歩後ずさりをすると、そのまま向きを変えて走り去った。
騒ぎを聞きつけた大和と里香が家から飛び出してくる。
「どうしたっ!」
「大和さんっ!救急車を、救急車を呼んでくださいっ」
灯里はその場にしゃがみこむと、必死でヤマダをかかえ込んだ。
「ヤマダさん、しっかりして!」
「大丈夫、それより灯里ちゃんに何もなくてよかった…」
苦しそうな吐息でヤマダが言う。
「ヤマダさん、ヤマダさん…」
灯里は泣きじゃくりながら、ヤマダを抱きしめた。
里香がバスタオルを持ってきて、刺された所を強く圧迫してくれる。
「灯里ちゃん、そのまましっかりと支えていて!」
灯里は震えながら頷き、「ヤマダさん、お願いだから頑張って…」と必死に祈り続けた。
パトカーと救急車が相次いで到着する。何事かと人が集まってきて、辺りは騒然としていた。
救急隊員が、ヤマダをストレッチャーに乗せながら、意識の有無を確認するために訊ねた。
「お名前は?お名前言えますか?」
「っ、安西陽大です」
苦しそうにヤマダが答えた。
「安西さん、今から病院に行きますからね。大丈夫、頑張りましょう。付き添いの方は、あなたでいいですか?」
呆然とする灯里に、救急隊員は聞いた。
「わ、わたし?私は…」
「妻の…、妻の灯里です」
灯里の代わりに、ヤマダが振り絞るように答える。
「はい、奥様ですね。一緒に乗ってください。歩けますか?」
救急隊員はへたり込んでいる灯里の腕を取って、救急車へと促した。
「灯里ちゃん、大丈夫?今西さんに連絡入れておくわね」
やり取りを聞いていた里香が気遣うように言い、落ちていたヤマダのバッグを手渡した。灯里はバッグを抱えて、放心状態のまま救急車に乗り込む。
大家の大和には、緊急連絡先として今西の番号を教えてある。今帰ったところなので、Uターンで戻ってきてくれるだろう。
灯里は救急車の中で、ヤマダの手をそっと握った。
意識が朦朧としているヤマダの手は氷のように冷たい。
『っ、安西陽大です』
掠れた声が頭の中でこだまする。
灯里は躊躇しながらも、ヤマダのカバンを開けた。
財布の中の免許証を確認すると、確かに「安西陽大」と書かれている。
ヤマダが安西だった。
会いたいと願っていた安西だったなんて…
灯里はハラハラと涙を流したまま、冷たい安西の手をもう一度しっかり握り締めた。