◇水嶺のフィラメント◇
「そうだよ、少なくとも九時は回った方がいいと思ったんだ。あの辺の酒場は遊郭も兼ねてる。その頃になれば酔っ払いも増えて、路地には娼婦も立ちんぼし始めるからね。あたいらの美貌じゃ、うっとおしい男どもが買いたいとまとわりついてくる可能性もあるが、いい目くらましにもなるだろ」

「しょ……うふ……」

 メティアの口から飛び出す単語は、どれもアンには衝撃的だった。

 言葉としての理解はもちろん、そういう裏の世界が存在するのも知識としては持っている。

 それでも直接目にしたことのない黒い(ただ)れのような闇に、アンの心はざわめいてしまった。

 そんな悲しそうな王女の様子に、メティアは、

「あたいが十四の時だから……レインは十八の頃だったね」

 ふっと懐かしそうな笑みを浮かべて、回り続ける歯車を目に語り出した。

 アンは初めてメティアの年齢を知った。彼女自身はレインの二つ年下なので、メティアはそのまた二つ下ということになる。

「メティアってあたしより年下だったのね」

 この時アンは二十二歳であったから、メティアはまだ二十歳(はたち)そこそこということだ。

 大人びた色気を(まと)うその外見から勝手に年上だと思い込んでいたので、驚きと共に、若くして大勢の民をまとめる統率力にも、益々畏敬の念を(いだ)いた。


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