黒衣の前帝は戦場で龍神の娘に愛を囁く
エピローグ
 橙色の美しい夕暮れ。大地には稲畑が実を実らせて揺らいでいた。
 涼しい風が私の長い髪を弄ぶ。
 夢を媒体に「集合無意識」に私は佇んでいた。人の想いや魂が具現化する場所。私をここに呼んだのは──。

「やあ、結月」
「刀夜」

 刀夜は昔と変わらぬ笑みで微笑んだ。その姿は下界で会った時とは異なり数百年前の陽兄が生きていたころの、穏やかな青年の姿だった。彼が変わってしまったのは兄様の死からだ。

「本当に自分から望んで堕天したっていうの?」
「そうだよ。それぐらい僕は人間も龍神族も許せなかった。陽善を見殺しにしたすべてが憎い」

 彼の気持ちが、分からなくない。
 龍神族の、同胞に嫌われていたのは辛いというよりも、悲しい。
 人間に対する負の感情は今もある。けれどそれだけじゃない。

「僕が死のうと、人間の魂が黒く染まっていけば魔物は生まれ続ける」
「……わかっている」

 魔物という存在はなくならない。脅威があることには変わりがないのだ。

「君は、こうなるんじゃない。結月は──幸せになるんだ」

 ぽん、と刀夜は私の頭に手を置いた。撫で方は昔と変わらない。それが無性に悲しくて、顔を見ようと顔を上げる。
 一陣の風が私の体をすり抜けていった。

「刀夜?」

 いつの間にか私は水面下に立っていた。空は桃色の夕焼けなのか朝焼けなのか分からない。けれど、この場所はよく知っている。
 昼でも夜でもない──あやふやな時間。ここに来ると、寂しくて泣きそうになる。

 誰かの声が聞こえるのに、霧散して消えてしまう。
 あれは全て幻だったのだろうか。戻りたい場所があるのに、どうやって戻ればいいのか分からない。
 早く戻りたいのに、帰り方がわからない。そもそも戻る場所など私にあるのだろうか?
 誰かが待っているはずなのに、思い出すのが怖くてしょうがない。それほどまでに甘く、幸せで、触れたら溶けてしまいそうな夢だった。愛されて、私も愛した──そんな幻想など現実ではないのでないか。
 不安で私は歩き出すことが出来ずに、足踏みしている。
 私はこんなに弱かっただろうか? 悩んでいただろうか?

「結月」

 私の前に白銀色の長い髪の壮年の男が立っていた。水面下にまで長い髪が垂れている。しかし男は毛ほども気にせず、ずっと留まっている私を抱き上げた。私を見つめる酸漿色の双眸は、とても優しい。

「いつまで眠っているのですか?」
「と、父様!?」
「現実世界では、かなり時間が経っていますよ」
「……でも、帰り方が分からなくて。それに私に帰る場所があるのかなって思うと怖くて……」
「おや、結月は忘れてしまったのですか。彼のことを」

 父様は私を下ろすと、水平線の向こうを指さした。
 人影がぼんやりと見える。

「帰る場所をもう見つけたのでしょう? ほら、彼も待っている」
「あ」

 人影は徐々にその輪郭を表し、私は息をのんだ。
 そう私はダリウスと一緒に居たくて、彼と生きていく道を選んだ。

「ダリウス。……どうしてこの場所に?」
「一度は死にかけて、ここに来ているのですから。それに《刻龍印》の結びつきが形となって現れたのでしょう」
(そっか。ダリウスが死にかけていた時、ここで父様が彼の魂を留めていてくれたから)
「結月。私はもうしばらく彼女と共に眠っているので、大丈夫ですよ。もう涙も出ませんし」

 母様の肉体と魂は、父様の元で眠っている。父様が死ぬその瞬間まで眠ることで添い遂げることを選んだ。人間である母様の想いが今なら少しだけ理解できる。
 大切な人を置いていくのも、置いて行かれるのも辛い。たとえ寿命が違っても、思い合う者たちの間には、些細なものだと気づかせてくれた。

「父様」
「なんです?」
「本当に一人で泣きません?」

 私の言葉に父様は口角を僅かに吊り上げた。

「ではもし泣きそうになったら、結月の幸せぶりを見に行くとしましょう」
「はい!」

 私は父様を抱きしめる。父様は「今日の抱きしめ方は満点ですね」と、母様がよく言ってくれた言葉をかけてくれた。頭を撫でる手はとても優しい。

「父様、ダリウスを繋ぎ止めてくれて、私を大切に育ててくれてありがとう」
「私はお前の父親なのだから、当然ですよ」

 私はそう呟くと、その場を離れた。父様は小さく手を振る。
 ふと父の傍で手を振る青年の姿を見つけた。
 白銀色の長い髪、父様に外見は似ていたが目を細めて柔らかく微笑む仕草が出来るのは陽兄だけだ。真っ白な神官に似た服に白い外套を羽織っていた。それは結月と同じものだ。

「陽兄……」

 幻だったかもしれないけれど、兄と父に背を押して貰って私は現実に戻る。
 大好きな人の元へ。


 ***



 遠くから聞こえる鳥の囀りが聞こえ、ゆっくりと目を開いた。あまりの眩しさに何度か瞬きを繰り返して、どこにいるのか周りを見渡す。カーテンから差し込む日差しが眩しくて、目が眩んだ。未だ曖昧模糊な意識だったが、それでも自分の置かれた状況を思い出す。

「ん……」

 ふかふかのベッドの上が心地よくて微睡の中、何度か瞬きを繰り返す。不意に自分の髪の色が黒いことに気づいた。

(あれ、どうして──痛っ)

 寝返りを打とうとして、体が殆ど動かないことに驚いた。下界に降りて、目を覚ました時よりも体にガタがきている。
 いや眠り続けていたせいで体が、硬くなってしまっただけなのかもしれない。少し寒い。いつもならすぐ傍に、温もりがあったはずなのに。
 刹那、眠気が一気に吹き飛んだ。

(ダリウス!?)

 周囲を見回してもダリウスの姿がなかった。
 そのことが無性に不安を掻き立てる。自分がどれだけ眠っていたのか分からない。夢の中で父様は「かなり時間が経っている」と言っていたが、龍神族の時間の感覚は人間とは異なる。

(五十年ぐらい経っていたらどうしよう)

 ずっと眠り続けたせいで、ダリウスに愛想を尽かされていたとしたら。考えたくもないが、不安が募る。夢の中でダリウスが何度も名前を呼んで、キスをしてくれた。あれは夢だったのかもしれない。あまりにも都合がよすぎる。私は全てを中途半端にして、ダリウスに押し付けてしまったのだから。
 ふと、自分が新品のガウンを着ていることに気づいた。少しだけ胸元がはだけて、《刻龍印》が刻まれていることに安堵する。

「ダリウス?」

 もう一度、私は彼の名を呼ぶ。
 今までダリウスと離れ離れで過ごしたことは殆どない。いつだって私が目を覚ますと、目の届くところに彼が居たのだ。
 それだけで独りじゃないと安心できた。けれどこの部屋には彼がいない。徹夜で仕事をしているのではないか。魔物の襲撃によって結界も砕かれて、寝る暇もないのかもしれない、そう自分に言い聞かせる。

「痛っ」

 体を起こすと関節が軋み、体が悲鳴を上げた。喉もカラカラだったが、私はゆっくりと起き上がる。
 私はダリウスにちゃんと気持ちを伝えていない。
 彼を助けるためとはいえ《刻龍印》を結んだことも、窮地に立たされたからじゃないと言いたかった。意識を手放してからダリウスに全部押し付けた。
 龍神族である誇りよりも、愛おしい人を選んだのだ。もしかしたらダリウスはそのことで怒って、傍に居ないのかもしれない。大事な時に、戦わないで何が龍神族だ。
 涙がぽろぽろと零れ落ちる。どうにか涙をせき止めようとしたが、私の気持ちとは裏腹に涙は止まらなかった。

 思い出すのは、ダリウスの低くて優しい声。
 肌に頬が触れる感触はくすぐったくって、抱きしめられた温もりは心地よい。彼の長い髪を乾かすのも、梳くのも好きだ。武骨で大きな手で頬に触れられるのは、安心する。
 好きだ。ダリウスに会いたい。
 もう一度、彼の温もりを感じたくて、自分の体に鞭を打ってベッドから立ち上がろうとして失敗した。
 思い切り、転んだ私は床に倒れてしまう。予想以上に足腰の筋肉が落ちているようだ。長期間のリハビリが必要かもしれない。

(ダリウスが傍に居るなら、苦にならない……のに……)

 この時、私は魔法を使うという手があったが、頭が回っていなかった。のろのろと、壁に寄りかかりながら寝室を出ると、部屋を出る。部屋を出るまでに三十分はかかっただろう。少しずつ体の感覚が戻ってきた。一度に龍神族の力をダリウスに明け渡したせいで、私の肉体が今の状態に馴染んでいなかったのかもしれない。
 依然として廊下には誰もいない。執務室に行くには、階段を下りる必要がある。ここが西の塔の最上階でないことを祈るばかりだ。
 ゆっくり一歩一歩、階段を下りていく。それからどのぐらい経っただろうか。上の方で声が聞こえた。
 
(誰だろう。見回りの兵士たちだったら、ダリウスの居場所を聞くにはちょうどいいかも)

 そう思って耳を澄ますと──。

「ユヅキ!!」

 堅牢な城砦が揺らぐような怒号に、私は両肩を震わせた。
 この声は間違いなく彼だ。
 私は心音が高鳴りながら、彼の名を呼ぼうと口を開く。けれど、喉がカラカラで大きな声が出ない。

「──っあ」
「ユヅキ! どこだ!?」


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