黒衣の前帝は戦場で龍神の娘に愛を囁く
「ダリウス」と絞り出すような声は、彼にはきっと届かない。
 けれどダリウスが私の名を呼んでくれた。単純かもしれないが、それだけで私は嬉しくて元来た道を戻ろうと振り返る。

「あ」

 浮かれた気持ちに対して、体はそこまで回復してはいなかった。足がもたつき私は階段から足を踏み外す。体がふわりと浮いて私は重力に従って落ちる。
 ふと落ちかけた瞬間、彼の顔が見えた気がした。

「……ダリウス」

 手を伸ばす。
 もしかしたら彼が助けに来てくれるかもしれない。そんな都合のいい奇跡は起こらないのに。指先は空を掴んだ。


 ***


 痛みを覚悟して目を閉じた。
 けれど、いつまで経っても痛みはやってこない。恐る恐る目を開けると──。
 その場所に突如現れたかのように、彼は私を抱き上げていた。
 真っ黒な髪は前髪の一房だけで、それ以外は真っ白だ。それでも、彼が誰か分かる。白いシャツに深緑色のズボンというラフな格好で、僅かに髪が濡れていた。何日もろくに寝ていなかったのか、目の隈が目立った。
 その姿に息が止まりそうになる。

「ユヅキ」

 彼はうっすらと口を開き、体の筋肉が緩むのがわかった。彼の温もりに、私は気づけば泣いていた。
 ボロボロと涙が止まらない。
 ダリウスに会ったらたくさん話したいことがあったというのに、声にならない。彼はあやすように優しく私の背中をさすってくれた。

「ダリウス……」
「ユヅキ、俺を恨んでもいい。けれど、何も言わずに逃げないでくれ」
「ちが……」

 胸が軋むように痛い。けれど悲しそうに微笑むダリウスの言葉に、私は言葉を紡ぐ。

「違う……の。目が……覚めたら、ダリウスが……いなくて」
「…………っ」
「怖くて……。私が勝手に押し付けて……ごめんなさい。ダリウス……助ける方法が、他に何も思い浮かばなくて」
「いいんだ。それに俺はお前が望んだからこそ生きている」

 ダリウスは私を力強く抱きしめる。けれど押し潰さないように加減してくれていた。彼は私をあやしながら、階段を上がって寝室へと戻る。私が三十分以上かかった道はものの数分で辿り着いた。
 壊れ物を扱うように、私をそっとベッドに降ろす。そして騎士のように膝を着いて、私に怪我がないか確認した。以前よりも過保護になっている気がするのは、気のせいだろうか。

「ダリウス。大丈夫よ?」
「お前の大丈夫は全く信用できない。さらに言うとお前を一人にすることが、どれほど危険なのかも身をもって知ったところだ」
「う……」

 ダリウスは冷静を保っているように見えたが、それでも寝不足で疲れてもいるだろう。声が震えているし、彼自身が今にも崩れ落ちそうなほど、弱々しく見える。
 今の私に出来ることは少ない。

「ユヅキ?」

 彼の頬に手を当てた。少しでも安心してもらいたくて、そっと彼の唇に触れる。
 ついばむような口づけ。
 ダリウスが息を飲むのが分かった。

「あの時、ちゃんと言えなかったから。……愛しているわ、ダリウス」
「…………………」

 ダリウスの反応がない。
 固まっていた。私は小首を傾げた。疲れ過ぎているのかもしれない。
「横になってみては?」と提案しようかと思ったのだが──。

「ユヅキ」
「ん? ──んっ」

 ダリウスから口付け。それも触れるようなキスではなく、噛みつくような激しいものだった。前よりも情熱的で激しく濃厚なキスに私は思考が追い付かない。けれどあの時と違うのは、キスに応えるようにダリウスの背中に手を回す。
 ようやく唇が離れると、追い打ちをかけるようにダリウスが口を開いた。

「ユヅキ、愛している」

 耳元で囁く声に、心臓が持たない気がした。自分だけドギマギするのが悔しくて、私も負けじと唇を動かす。

「私も……ダリウスが大好きよ」

 頬、唇、首筋にキスをしていき、ダリウスは私の顔をじっと見つめた。

「出来るだけ早く式をあげるよう」
「は、はい!?」
「これから先、一時たりともお前から目を離すものか。少しでも離れるとろくなことにならない。わかるか、さっきだってお前がベッドに居ないで肝を冷やしたんだぞ」
「あれは──ダリウスを探して」
「ああ。それでも心臓に悪い」
「ダリウス」
「……だから、ずっと俺の傍らにいてくれ」

 まっすぐに熱のこもった眼差しに、私は小さく頷こうとして頭を振った。でも不安ごとがある。だから私はそれを一つ一つ言葉にしていく。

「ダリウス……」
「ダメか?」
「……ううん。でも私、もう前みたいな龍神族の力がないわ」
「構わない」
「私、戦うこと以外、上手くできる自信がないのだけれど」
「俺だってそうだ」
「人間が皇族や王族は……苦手」
「だろうな。龍神族の歴史を見ればそれは普通だ」
「兄様は王族と結婚して、権力争いに巻き込まれて邪龍になったの」

 ダリウスは私の言葉を黙って聞いてくれた。話している途中で喉が渇くと、飲み物を用意してくれて、それから私は兄のことを語った。

「お前には復讐するだけの権利はある。トーヤが邪龍になったように、それだけのことを俺たち人間はしてきた。結果、龍神族を追い詰めることになったのも理解している」
「……」
「……それでも俺はお前と一緒に生きていきたい。人間と龍神族が共に暮らしているこの時代でなら、できるはずだ」
「私は貴方の隣に居たい。だから、ここに戻って来られたの」
「貴方じゃないだろう」
「ダリウス。それとも旦那様?」

 彼は驚いた顔で私を見返す。

「名前がいい。結月には名前を呼ばれたい」
「うん。ねえ、ダリウス。私が隣にいてもいい?」
「ああ、勿論。俺もユヅキではないとダメだ」
「……うん」

 ダリウスはホッとしたような、それでいて嬉しそうに笑った。そして背後へと視線を向けた。

「──という訳で、ギルバート宰相、俺たちは結婚するが何か問題でもあるか?」
(な!? まったく気づかなかった)

 寝室へと姿を見せたのは、ギルバートとカイルの二人だ。カイトは号泣しており、ギルバートは眠たげにあくびをしていた。
 どちらも髪や服装もよれよれで疲れ切っている。

「おめでとうございます、師匠、閣下!」
「当初の目的は達成しましたし、問題ないでしょう。ただ帝都での披露宴は来年の春でしょうかね。前帝の結婚となれば国を挙げて行う一大イベントですので」
「好きにしろ。だが、また結月を利用しようとするなら、覚悟しておくんだな」

 ダリウスはギルバートを睨んだ。
 牽制いやこの雰囲気は本気だった。確実に次は血の雨を降らす、という凄みがあった。ギルバートはため息を吐きながら「承知しました、前帝閣下」と一礼をすると部屋を出ていった。
 カイルは城砦の者たちに知らせると言って同じく部屋を飛び出した。

「料理長にお赤飯と七面鳥と特大のケーキを作ってもらいに行ってきます!」
「え、ちょ、カイル!? いろいろ混じっているし、間違っているのだけれど!? あとたぶん消化に悪い!」

 彼を呼び止めようとしたが、ダリウスに抱き寄せられてしまった。その腕に殆ど力が入っていない。カイルを引き止めるのを諦めた私は、ダリウスへと振り返る。

「ダリウス」
「もう少し、お前を独り占めさせろ」

 少しムスッとした顔で、ダリウスは耳元で囁く。その声は擦れており、いつものキレがない。

「ずっと寝てないわね」
「仮眠ぐらいなら取っている」

 そうは言うが、目がとろんと眠たそうだ。私が目を覚ますまで、気を張っていたのかもしれない。なら今度は私がダリウスを安心させる番だ。

「寝るのなら横になって、ほら、早く」
「だが──」
「私も隣に居るから」
「いや……それはそれで、抑えられるかどうか……。晴れて恋人──いや妻になってくれると言うのなら、自制は難しいかもな」
「?」

 ダリウスが何を言っているのか一瞬分からなかったが、もろもろ理解した瞬間、頬が熱くなる。晴れて恋人になり結婚までするのだ。当然、そういう行為は理解できるが、やはり恥ずかしい気持ちが強い。

「ユヅキ。そんな顔をしなくても、これからずっと一緒なんだ。ゆっくりでいい」
「そ、ちが……」
「ん?」
「その……べ、別に嫌じゃないわ」

 自分で言いながら恥ずかしさで、顔が沸騰しそうに熱い。けれどこれ以上の言葉を重ねたら、ダリウスは眠らなそうな気がした。

(ここはアレを使うしかないわね)
「ユヅキ?」

 私は手のひらを翳す。風と共に薬草の香りが鼻腔をくすぐる。魔道具精製の応用。
 ちょっとした薬調合なら、簡単に作れる。豆粒ほどの眠り薬の出来上がりだ。

「また何を──」
「これはね」

 私は素早く眠り薬を口に含むと、そっと唇を重ねた。自分から口を開き、舌を出して眠り薬を飲ませる。吐き出さないように出来るだけ長いキスをした。
 少し前の私だったら恥ずかしさで卒倒していただろう。けれど今はキスを続けていたい。先に唇を離したのはダリウスだ。

「ん……。何を飲ませた」
「眠り薬。……えっと、だから続きはまた今度ね」
「お前、自分からキスをしたと思ったら……煽るのが上手くなったな」

 ダリウスは体の力が抜けて、私を抱きしめたままベッドに沈んだ。最後の気力を振り絞って、彼は私をじっと見つめる。
 ここまでくると執念というべきだろうか。

「起きたら……覚えて────すぅ」
(めちゃくちゃ不吉なことを言いかけて眠ったのだけれど!? 数分前の記憶を消す魔法ってなかったかしら?)

 私はダリウスの頭をそっと撫でる。改めて自分の選択を振り返った。
 失ったものの方が多い。
 同胞の死、龍神族の力──。
 それらをすぐに受け止めることは、難しいだろう。
 それでも、なんとかなる気がした。
 それは愛おしい人が、ダリウスが生きているから。一人ではないというのは、こんなにも心強いのだと知った。

(得られるとは思っていなかった、生涯に一度のつがい。戦いだけだった私にこんな日が来るなんて──)

 私はダリウスの温もりに寄り添いながら、眠りについた。


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