純・情・愛・人
挨拶に来ることを伝えた時、お父さんは『なら散髪でも行ってくるかー』とおどけた。なんの挨拶だと茶化したりはしなかった。

娘を愛人にくれと、真剣に頭を下げられる日が来るなんて思いもしなかった筈なのに。

「親父さんに覚悟だけを見せに来たつもりはない」

言って、宗ちゃんが仕立てのいい上着の内ポケットにおもむろに手を差し入れる。

グレーの三つ揃いに合わせた、サックスブルーとアイスブルーのストライプ柄のネクタイは。自分が就職した年のクリスマス、冬のボーナスを奮発してプレゼントしたものだ。気に入りだと言われてすごく嬉しかった。

「俺の遺言が入った貸金庫の鍵だ。薫の事も子供の事も公正証書で残した。立ち会った弁護士のほかに知る人間はいない」

小さい膨らみのある、二つ折りの封筒がお父さんの前に置かれた。

「それから薫名義のマンションの鍵と、権利証も一緒にしてある。必要な物は揃えたしな、ここから歩いても十五分かからない距離だ。好きに使えるぞ」

最後はわたしを捉えた切れ長の眼。
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