恋の魔法なんて必要ない!~厭世家な魔術師と国外逃亡した私の恋模様~
男が何かを持って近づいてきて、恐かった。
会話がはっきり聞こえたわけじゃなかったからもしかしたらこの布を取ってくれるんじゃないかと、早く早くって思って。
何度もえづいたせいで布には胃液が滲みて、それが鼻腔を刺激してさらに吐き気を催して。
でも男は褐色瓶を、私の口じゃなく、鼻に...近づけた。
涙のせいか、薬のせいか。
鼻がつうん、として意識は途切れた。
────次に気づくと、それは冷たいところだった。
縄が外れていたから、痺れた両手で胃液でどろどろの布を吐き出して起き上がった。
もうヘトヘトで、でもこうなったのは全部自業自得で。
ゆっくりと起き上がると何もなかった、見えなかった。
床は冷たい板だ、優しい木じゃない、冷たい板。
動かない右足を抱えているとにわかに騒がしさが訪れて、肩が恐怖で震える。
そこに眩しさも加わり、目が眩んで。
私は座り込んで何もできない。
いつまで経っても喧騒は静まることはなく、顔を上げるとそこは。
思わず息が止まった。
忘れもしない、あの大広間。
たか笑う声、ヒソヒソ声、鳩の飛び去る小さな羽音。
毎夜毎夜。
何度も何度も何度も何度も。
何度も夢に出てきた、どうして記憶から...消えてくれないの、
──カン、カン、...カツン。
ピタリと止まる高いヒールの音。
分かる、私は覚えている。
室内履きでも、階段を降りる音も、ヒールで歩くときも───。
それが誰か分からないはずがない。
しかし私の前で止まった影に、私の理性は潰えた。