月へとのばす指
けれど、実際の経験はなかった。大学の頃に付き合った相手はいたが、キス以上はしなかった。それ以降、誰とも付き合ってはいない。
……怖い、と思う。そんなふうに求められることは。
だが、その恐怖感はあくまでも本能的に感じるもので。
久樹に対して怖さを感じているわけではない、と気づく。彼に抱きしめられている今の状態は、ひどく緊張して体もこわばるけれど、心地よかった。服越しに感じる体温と匂い、そして静かな中で聞こえてくる心臓の音が。
「…………」
迷いはあった。男女の関係になっても、本当に一度きりのこと。それ以上に続けるつもりはないのだ。誰とも付き合わない、ましてや結婚などしない、そう決めているのだから。
けれど、今だけのことだと、彼も言っているのなら。
一度だけなら、自分に許してもいいのではないか。
──いや、そうではない。
唯花自身が、今、久樹と離れたくないと思っているのだ。
(この人と、一緒にいたい)
ずっとそうすることは、自分にはできない。
だけど、今だけなら……今晩だけなら……
そんなふうに思うのは──きっと、彼を好きだから。
社長の息子、お坊ちゃんなのに不器用そうで、けれど一生懸命、仕事に取り組んでいて。
自分に対してストレートに、真っ直ぐすぎるほど真っ直ぐにぶつかってくる久樹を、弟のような相手ではなく、男性として特別に思うようになっているから。
「…………」
「え?」
「いいですよ。今だけなら」
耳元で、はっと、久樹が息を飲む音がした。
「……本当に?」
久樹の問いに、唯花はうなずくことで答える。肩でそれを感じ取った久樹は、唯花の頭に回していた手を、頬に移動させた。
「唯花」
もう一度呼ばれた名前は、あふれる想いを抑えるように、少し震えていた。
「──好きだ」
告白とともに、近づいてきた彼の唇が、唯花のそれと重なった。
初めて触れた唇は、少し冷たくて、柔らかかった。
抱きしめている体とともに、かすかに震えているような気もする。
唇を離してから、唯花の顔をのぞき込み、久樹は問う。
「怖い?」
ためらうような間の後、彼女は「少し」と消え入りそうな声で答える。ひらめく事柄があり、さらに尋ねてみた。
「もしかして、初めて?」