絶対に結婚したくない令嬢、辺境のケダモノと呼ばれる将軍閣下の押しかけ妻になる
 貴族は仲間内で他人の『落ち度』をスイーツのように楽しむ。マティアスの八年前の失態ですら、彼らはいまだに忘れてはくれない。
 だから侯爵令嬢という身分にふさわしい男と結婚したら作家は辞める必要があるだろう。正体が露見すれば、自分ひとりの問題ではなくなるからだ。

 だが結婚相手がマティアスならどうだ。
 王都には『領地運営のため』と理由をつけて、この八年間で一度も寄り付かなかった。シドニア領主の妻なら、作家を続けられると思ったのではないか。
 彼女は貴族という特権階級よりも、作家であることを選んでこの地に来たのだ。

 なぜ身分違いの結婚に積極的だったのか、その理由がようやく理解できて、少しだけ肩の荷が下りた気がした。

(それでもまぁ、ずいぶん変わっているとは思うが)

 いくら流行作家といえども覆面作家だ。どこぞの名門貴族に嫁いで奥様として過ごしたほうがどれだけ華やかな生活を送れるか、比べるまでもない。

「フランチェスカ……」

 なにげなくフランチェスカの手元を見ると、インクで指先が汚れていた。マティアスはそのほっそりとした手を取り、指先を親指でなぞる。

「今さらあなたのことを知りたくなった思うのは、おかしいだろうか」

 正直言って、彼女に利用されたことを複雑に感じる気持ちもある。
 だがやはりマティアスは、フランチェスカを悪く思えなかった。
 初めて彼女と顔を合わせた日のことを思い出す。
 雪吹き荒ぶ中で『私は王都で貴族として暮らすことになんの魅力も感じておりません。私もなんだかんだと十八まで生き延びましたし、今は元気です。このシドニア領主の妻として、立派に責任を果たす所存ですっ!』と、けなげに叫んでいたフランチェスカの表情を。

 自由にならない貴族の結婚の中で、彼女は最適解と信じてマティアスを夫とすることを決めたのだろう。
 そして切っ掛けはどうあれ、今の彼女はシドニア領のためにこの手をインクで汚している。
 十歳まで生きられないと宣告されながら、作家であり続けるために王都を離れ、マティアスの妻でい続けるために、薄くてびっくりするような華奢な体で全力を出し、必死になっている。

 その事実は誰にも否定できないことだった。
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