恋はひと匙の魔法から
 オフィスに足を踏み入れた透子はフロアの一番奥を目指す。社内は業種で緩く分けられたフリーアドレスだが、その席だけは固定だ。
 一番奥の窓際に独立して設置された広めのデスク。そこでデスクトップパソコンのモニターを睨み付ける、この会社では珍しいスーツ姿の男性に、透子は声を掛ける。

「西岡さん、お昼置いておきますね」

 彼――西岡遼太は、透子の声に反応して顔を上げた。
 短く整えられた硬質な前髪の間から覗く、意志の強さが表れた切長の双眸が透子に向けられる。その眼差しを受けて、透子は心臓がトクトクとその鼓動を早めていくのを感じた。
 均整のとれた美しい顔立ちに加え、経営者という人の上に立つ立場にある西岡は他者を圧倒するオーラを持ち合わせている。その迫力に魅せられ、透子は毎回性懲りもなく胸を高鳴らせてしまうのだ。
 
 透子はその高鳴りを表に出さないよう笑顔を作り、先程買ってきたおにぎりが入ったビニール袋を置いた。
 西岡はビニール袋を一瞥し、それから透子へ視線を向けると「ありがと。いつも悪い」と短く礼を言って頷いた。彼の視線の先がまたモニターに戻る。
 かと思いきや、彼は何かを思い出したらしく再び顔を上げた。その表情はどこか険しい。

「透子。今週の空いてる時間に、マケソリのメンバー呼んどいて。ミカドフーズとのタイアップ、進捗知りたいから」

 マケソリとはマーケティングソリューション統括の略称で、所謂営業部門だ。飲食、その他メーカーへ向けて、『ルセッタ』を利用した広告サービスの導入を提案している。
 新規取引先である、大手冷凍食品メーカーであるミカドフーズとの今回のタイアップは予算規模も大きく、西岡を始め、ソリューション営業の幹部陣がかなり力を入れて調整していた案件だ。
 このタイアップはまだ始まったばかりではあるが、漏れ聞いたところによると、広告の流入数が芳しくなく、当初の目標指数を今のところ下回っているらしい。
 西岡の表情にも納得がいく。

(これは荒れるかもだ……)

 進捗確認と今後のアクションの見直しも含め、かなり長丁場の会議になるだろう。透子は頭の中で西岡の予定を組み替えながら、心の裡で苦笑した。
 表情ひとつ変えずに報告を聞き、原因を容赦なく追及しながら淡々と話を詰めていく西岡の姿がありありと目に浮かぶ。
 彼の指摘はいつも決して理不尽なものではない。しかし愛想が些か不足しているせいで、どうしてもその場の空気は殺伐としたものになってしまうのだ。
 役職付きの社員からは、冗談混じりに「鬼CEO」と呼ばれているのを、透子は知っている。
 透子は、詰問を受けるであろうマケソリの幹部陣に密かに同情した。
 しかし、そんな考えはおくびにも出さず、透子は朗らかに微笑みながらすぐさま頷く。

「分かりました。皆さんにも連絡入れておきますね」
「うん。ありがとう」

 悠然と頷いた西岡の視線が今度こそモニターへ戻り、透子もまた、通路を挟んだ隣にある自分の席へ戻った。
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