恋はひと匙の魔法から
 当時は『ルセッタ』がSNS上で評判になり始めた頃だった。
 社内体制は今より整っておらず、透子の業務も今より多岐に渡り多忙を極めていた。
 そんな中、透子は西岡が営業先へ訪問する時間を一時間勘違いする、というミスを犯してしまった。
 気がついたのは約束の時間の三十分前。社内会議とブッキングしていたため急ぎ予定を調整し、ろくに準備もできないままタクシーに乗り込むことになってしまった。
 訪問先が近かったことが幸いして、約束の時間丁度に到着することはできた。商談もつつがなく終了したが、西岡にはかなり負担をかけてしまった。
 スケジュール管理は社会人の基本だ。そんなことすらできない透子に、西岡は失望したに違いない。
 透子の脳裏でフラッシュバックするのは、前職で毎日のように浴びせられた罵詈雑言の数々。
 透子は帰りのタクシーで青褪めながら西岡へ謝罪した。
 かなりの叱責を覚悟していたが、西岡は「間に合ったし、俺も確認忘れてたから。次からお互い気をつけよう」とサラリと注意を促しただけだった。
 前の職場だったら恐らく大声で怒鳴りつけられ、二時間は罵倒されていただろう。
 気持ちに収まりがつかなかった透子は、社に戻ってから予定変更を余儀なくされた役員たちへ順に頭を下げに行った。
 そして、最後に自席で資料に目を通していた西岡へ再度平身低頭で謝罪したのだったが――

「あのさ……三浦って俺のこと鬼かなんかだと思ってる?」

 恐る恐る顔を上げると、西岡がポカンとしながら透子を見ている。

「い、いえ!そんなことは……。でも、ご迷惑をおかけしてしまったことは事実なので……あの、えーっと……」

 過度な謝罪で逆に気分を害してしまったのかもしれない。まごつく透子を前に、西岡は眉を下げてわずかに口元を緩めた。
 
「うん。だから気にしないでいいよ。さっきも言ったけど、確認できてなかった俺も悪いし、ミスは誰にでもあることだから」
「は、はい……あの、ありがとうございます……」
「三浦は本当に良くやってくれてるよ。事務処理は早いし、作ってくれる資料もクオリティ高いし。色々気を回してくれて、いつも助かってる」
「そんな……とんでもないです……」
 
 ミスをした透子を責めることなく、それどころかいつになく優しい口調でフォローしてくれた。透子はどぎまぎしながら頭を下げる。
 自分の仕事ぶりを褒められるなんて随分と久しぶりだ。
 使えない。役立たず。
 そんな鋭利な台詞で傷つけられていた透子の心がそっと慰撫された気がした。
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