恋はひと匙の魔法から
 この恋は、成就することのない片恋。そんなことは分かりきっていて、透子自身も叶えようとは思っていない。
 今の職場は居心地が良く、仕事も好きだった。それを投げ打ってまで彼に気持ちを伝えたいと思うほど、透子は恋に生きれなかった。彼に振り向いてもらう自信もない。
 だから、この想いは胸裏で温めるだけのものだと、そう割り切っている。
 いっそ捨ててしまえたら楽なのかもしれない。
 そう思って何度も手放そうとしたけれど、結局は透子の元に舞い戻ってきてしまうものだから、どうしようもなかった。
 
 透子は、胸にいっぱいになった切なさを吐き出した。あまりのんびりしていると、昼休みが終わってしまう。そこでようやく箸を取り、今日も綺麗に仕上がっただし巻き玉子を摘んで口の中へ放り込んだ。

 
 オフィスへ戻ると、透子の姿を捉えた西岡が手招きしてくる。
 彼の元へ行き、指差されたモニターを一緒になって覗き込んだ。明日行われる役員会議の資料についての内容だ。透子は彼の話に真剣に耳を傾ける一方で、ともすれば体の一部が触れ合ってしまいそうな距離の近さに体温が上昇していくのを感じていた。
 説明した内容を追加で資料に盛り込んでほしいという頼みを即答で了承する。
 席へ戻ろうとしたところで、彼に呼び止められた。

「これあげる」

 そう言って手渡されたのは、ラングドシャクッキー。取引先から手土産として渡され、透子が西岡に配ったものだ。その際、ついでに透子もちゃっかり一つ貰っている。
 西岡は甘い物も特に嫌いではなかったと認識していたが、これはあんまり好きじゃなかったんだろうか。
 透子がおずおずとそう尋ねると、西岡は眉を上げてそれを否定した。
 
「さっき、それ好きだって言ってたから。はい」

 確かに昼休憩に入る前、隣に座っていた経営企画室の女性社員とそんな話をしていた。席が近い西岡も当然聞こえていたに違いない。
 これをあげるからよろしく、と暗に示すお駄賃的な要素だろうけれど、彼はこうしてちょくちょく透子を気遣ってくれる。
 こういった彼のさりげない優しさが透子の恋心を増長させていくのだ。
 我ながら懲りないなぁと思いつつ、有り難くクッキーを受け取った。
 
 西岡に背を向けようとした時、彼の左手首に装着されている、シンプルなシルバーの腕時計がパッと視界に入った。先程テレビに映っていた英美里も、同じデザインの腕時計をしているのを知っている。
 いい加減に現実を見ろ、と嗜められたような気がして、透子は一人ほろ苦く笑った。
< 8 / 131 >

この作品をシェア

pagetop