ブラックコーヒーに角砂糖一つ
 ああだこうだとつまらない喧騒が多過ぎるこの世の中で、なんとか無事に切り抜けられる人はどれほど居るのだろう?
 真実を話せば死ぬほどに叩かれ、嘘にもならないような天女の甘い恋に酔いしれる。
 真実を語ろうとすれば、その人が架空の名前であっても個人攻撃だ誹謗だと騒がれてしまう。
 本当に真実を伝えるのが難しくなった世の中である。
そのせいなのかどうかは知らないが、甘い甘いフィクショニックなファンタジーが好まれてしまう。
ありのままにそのままに時代を映していくことがこれほど難しい時代も無いだろう。
 マスコミでさえ真実には絶対に触れない。 そして有り得ないようなデマを平気で吹き流している。
ネット空間でもそれは変わらない。
何をどうすればこうまで歪み切った国になるのか?
 悪は悪である。 悪を善だと言うことは出来ない。
でもなぜか悪を微善だと言い張る風潮が何処かに有るような気がする。

 頭はふら付いていて落ち着かないのだが、妻も外出したのだから、俺も少し出ようと思って焼鳥屋の辺りまでやってきた。
この近くに京子が暮らしているマンションが在る。 そのマンションのオートロックの前に立った。
「あら、ほんとに来てくれたのね? 入って。」 ガチャっとロックが解除される音がする。
中へ入ると広々としたエレベーターホールが広がっている。 (広いなあ。)
ここの住民らしい男と女が愛想笑いをして通り過ぎていく。 ここのどっかに有名人が住んでいるとかいないとか、、、。
感心しているとエレベーターの扉が開いた。 微笑している京子が出てきた。
「やっとここに来てくれたんですね?」 彼女は何とも嬉しそうに俺にくっ付いてくる。
会社ではいつもスーツ姿しか見ないのだが、今日は、、、。
「どうしたの? ぎこちないのねえ。」 「だって、ここに来るのも初めてだからさ。」
「奥さんはどうしてるの?」 「たぶん、ブティックでも見に行ったんじゃないかと思う。」
「じゃあ、夕方までは戻らないわね? ゆっくりして行って。」 「ありがとう。」

 二人でエレベーターに乗り込む。 ドアが閉まるとなぜか二人揃って無口になってしまった。 それもそうだな。
二人きりでこうやって会うのは初めてなんだから。
 このマンションは28階建て。 わりと小さいほうである。
屋上には緑化スペースが在って少しだけ遊具も置いてあるとか、、、。
 やがてエレベーターは京子が住んでいる27階に到着した。 「降りるわよ。」
ドアが開き、ホールから廊下を歩いていく。 遠くに飛行機が飛んでいるのが見える。
「あんまり下を見ないほうがいいわよ。 気絶する人も居るくらいだから。」 「京子はどうなの?」
「私はもう慣れちゃったわ。 迂闊に覗いたら飛び降りちゃいそうよ。」
2738号室。 ドアにカードキーを差し込むとロックが解除されて俺たちは中へ入っていった。
 「広い部屋だねえ。」 「そう? これでも狭いほうなのよ。」
「これで狭いって?」 「うん。 だって六つも七つも部屋が在ったりするくらいだからねえ。」
 彼女はリビングのテーブルにキーを置くと俺に椅子を勧めてくれた。 「何か飲みますか?」
「そうだなあ、、、。 酔い覚ましにコーヒーを飲みたいな。」 「分かったわ。 待ってて。」
 京子は慣れた手つきでコーヒー豆を取り出すとメーカーにセットして水を入れた。
「私ね、家じゃ豆から出して飲むのが好きなの。 前はインスタントでもいいかって思ってたんだけど、、、。」
 会社ではしょうがなさそうな顔でコーヒーを飲んでたっけなあ。 そういうことだったのか。
「ねえねえ、最近は奥さんを抱いてるの?」 いきなり聞いてくるものだから、俺はぎょっとした。
「なになに?」 「結婚して長いんでしょう? 最近は抱いてるのかなって気になって。」
「そうだなあ、、、。 昔みたいには抱かなくなったなあ。」 「じゃあ、奥さんは寂しいんじゃないの?」
「どうだろう? 娘が死んで以来、別々に寝てるから分からないよ。」 「そんなもんかなあ?」
 京子はメーカーを見ながら溜息を吐いた。 そして、、、。
 「私を壊してほしいの。」 「何だって?」
「私、誰にも愛されたことが無いのよ。 抱かれたことも無いの。 だから、、、。」
そう言って飛び込んできた京子を突き放すわけにもいかず、俺は強くきつく抱き締めるのであった。

 時計はまだまだ昼になったばかり。 こんな真昼間から愛し合っていいものかと、、、。
俺が躊躇しているのに気づいた京子はさっと飛び退くと無邪気に笑いながらコーヒーメーカーを覗いた。 「いい感じねえ。 美味しそう。」
そう言いながら二つのコップにコーヒーを注ぐと少し寂しそうな目で俺を見た。 「私、あなたを社長だとは思えなくて、、、。」
「何で?」 「一人の男性としてこのまま尽くしたいって前から思ってたの。 それくらいにあなたを愛してるの。 分からなかったでしょう?」
「そうだったのか。 だからここまで、、、。」 「もちろんね、あなたが悪いわけじゃないわ。 奥さんが居るんだし、娘さんも居たんだから。 でも私はずっとあなたに全てを奪われたいって思ってきたの。」
京子はコーヒーを飲みながら俺の顔を見詰めている。 どうもその顔から視線を外すことが出来ない。
 会社に居る時には賢い秘書として走り回ってくれている京子だが、プライベートな世界に入ると何処となく危ない香りがするのは何故だろう?
沈黙に耐え切れなくなった俺は京子の腕を引き寄せた。 するすると近付いてくる京子の髪から甘い香りが漂ってくる。
 「しっかり抱いてください。 二度と離れないように。」 熱い吐息が首筋を駆け上がっていく。
胸ポケットに入れていたガラホのバイブ音が聞こえた。 (何だろう?)
 確認してみると妻からのメールである。

 『今日は友人と食事をするので遅くなります。 帰らなかったら泊ってるものだと思ってくださいね。』

 軽く読み過ごしたメールなのだが、(おそらくは泊ってくるんだろう。 いつものことだ。)と軽く考えて『オッケー。』とだけ返事をした。
京子は怪訝そうな目で俺を見ていたが、返信が済むとまたまた子供のように飛び込んできた。
そして以前にも増して萌えている顔で唇を重ねてきたのである。
 さすがに27階のここではマスコミ連中も追い掛けては来ないだろう。
娘が死んだ時、あれほどに追い回されて嫌な思いをしてきた俺だからどっか気が抜けるような気さえしたのだ。
京子が舌を差し入れてきた。 思わず俺は我を忘れて舌を絡め返していた。
 俺から離れた京子はうっすらと涙を浮かべながら言った。 「やっと私の気持ちが通じたわ。」
それがどういう意味なのか、すぐには呑み込めなかったのだが、、、。

 やがてテーブルの上に細やかな昼食が並んだ。 「こうして食べるのも初めてだわ。」
「そうだね。 いつもはコンビニの弁当だもんね。」 京子は野菜炒めを食べながら俺の顔を覗き込んでいる。
こうしてやっとお目当ての男を捕まえた京子はまるで少女のように微笑むのである。 廊下を歩く足音も聞こえない。
そればかりか、近所の騒ぎでさえ聞こえない。 まったく二人だけの世界がここに在る。
静かに時は流れている。 今まで一度として感じたことの無い空間で。
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