敏腕教育係は引きこもり御曹司を救えるか?
星は手に持っていた書類を阿久津に渡す。彼と顔を合わせるのは、あの日エレベーター前で鉢合わせして以来だ。
「これ、人事課に提出する書類持ってきたんだけどどこに出せば良い?」
「ええと、見ても大丈夫ですか?」
「うん。もちろん」
見ると、配偶者の扶養関係の書類で、星の妻の名前が書いてあるのが見えた。阿久津はすぐに書類から目を離して答えた。
「……扶養関係ですね。それなら共済の山田さんです」
「あ〜山ちゃんか、ありがとう!」
いえとんでもない、と言って阿久津は書類を渡してまたパソコンに目を落とそうとした。だが、星はまだ阿久津に用があるのかそのまま居座って話しかけ続ける。
「どうだった? 例の48階の件は」
なるほど、本題はこれか。48階、すなわち社長室がある階。ずばり星は阿久津が社長に呼び出された案件について聞きたいのだ。そもそも阿久津と同じ人事にいた経験もあり、社内で顔も広い星が提出書類の担当者を知らないはずがない。あくまで扶養の書類は話すきっかけで、社長の情報を少しでも知りたいのだろう。出世意欲の強い星らしいと思った。
「……ああ、あの件ですか。大した話ではありませんでしたよ」
周囲の人に聞こえても良いようにぼかして答える阿久津。そもそもこんな社長一家のプライベートな話、星にも絶対に言えない。
「へえ。あの方、すごく多忙なのに。そんな大したことない用事で呼び出す?」
星は冗談めかして食い下がる。
「最近の若手の傾向とか、うちの課の教育方針について知りたかったようなので私を呼んだそうです。私が長年新人教育の担当なので」
「ほ〜! なるほどね! 凄いじゃん阿久津!」
星は信じたのか信じていないのか分からないが、大袈裟に笑顔になって阿久津の肩をポンポンと叩いた。出た、また気軽なボディタッチ。
「後でその話聞かせてよ。最近の阿久津のこともさ。久々に美味い酒でも飲みながら」
「あ〜、良いですね。星さんの奥様の許可が下りればですけど」
「大丈夫大丈夫。うちは寛容だから。じゃ、後でチャットする」
ヒラヒラと手を振って、星は軽快に去っていった。
嵐が過ぎた、とばかりに阿久津は安堵のため息を漏らす。そもそも相手が星だろうと誰だろうと、阿久津は学の件について話すつもりは無かった。本件を阿久津に依頼してきた山下課長にも阿久津は同様の建前上の話をしており、阿久津はこれからも時々、社長から新人教育についてヒアリングを受ける、という体でオフィスを抜ける許可を得ている。オフィスを抜けて何をするのか。本当の業務内容はもちろん、学の社会復帰の手伝いである。
とはいえ、何をしようか。今の学に色々と接触を試みようと、心を閉ざしているうちはうまくいかない気がする。きっと今までたくさんの業者やボランティアが同じようなことをやったはずだ。で、あれば阿久津は……
◇◇◇
「わっ、阿久津さんお疲れ様です!」
定時ピッタリに席を立ち、退社のためにエレベーター待ちしていたところ、後輩の間宮 正吾《まみや しょうご》と花澤 美月《はなざわ みつき》にばったりと会った。間宮は3年前、花澤は去年、阿久津が新人教育についた若手だ。
「花澤さん、間宮くん! 2人も今帰り?」
「はい! この後軽く飲みに行こうと思って」
間宮の声はとても高揚している。同じ部署に異動してきた華やかで可愛い花澤と飲みに行けることが嬉しくてたまらないのだろう。
「おお〜月曜から元気で良いね! 楽しんできて!」
「阿久津さんもどうです? 予約はしてないんで、人数増えても大丈夫です! 女子トーク、しませんか⁈」
阿久津が2人を気持ちよく送り出そうとすると、花澤が呼び止めてくる。ちょっとだけ残念そうな顔をする間宮。分かってる、分かってる。ここは空気を読むところだ。
「あーごめん。今日はちょっと……また改めて連絡する!」
間宮がこちらに感謝のアイコンタクトを送っているのを感じた。可愛い後輩のアシストをするのも先輩の仕事だ。まあ、花澤は間宮をどう思ってるのか分からないが、2人で飲みにいくのを嫌がらないならとりあえず若い2人で行ってみたらいい。まず、今日は阿久津にもやらなければいけないことがある。
「残念! それなら下まで一緒に行きましょう」
間宮と阿久津の無言のやりとりに気づいていない様子の花澤はなおも阿久津を離さない。
「そうは言うけど、花澤さんとは先週も飲んだばっかだよね? もはや新しい話題も無いよ」
阿久津が笑いながら言うと、花澤は意味ありげに微笑んだ。
「あるでしょう、阿久津さん。この花澤の目は誤魔化せませんよ〜」
「えっ」
一瞬ぎくりとした。もしかして、社長に呼ばれたところを花澤にも見られたか? 学の件を何か知っている?
「何のことかなあ?」
「分かってるくせに! あのエネルギー部門のイケメンのことですよ」
なんだ星さんのことか。1番隠したかった事はバレていなかったので一安心。
「今日、人事課の前通りがかったら阿久津さんとそのイケメンが話してて、ただならぬ距離感だったんです! 前も私、その人と阿久津さんが一緒にいるのを見かけて」
「いやいや、一緒にいるだけだろう?」
「でも! 雰囲気が何かありそうな感じだったんです」
「何だよそれ」
何も知らずにはしゃぐ花澤と、それを少し諌める間宮。
「あー、星さんはほら、女性に対しては誰にでもああいう感じだから。花澤さんも気を付けなね」
阿久津は軽く笑って受け流した。事実、星はとんでもないプレイボーイで、おそらく社内の各課にお気に入りの女性がいるのではないのだろうか。その整った容姿と押しの強さのおかげで、女性側も強く拒否はしない。実際、星の独身時代は社内でも何人もの女性が彼と噂になった。阿久津は、噂にもならなかった有象無象の1人である。もちろん噂にならないに越したことはないのだが。
「星さんはさ、ああ見えて既婚者だから。阿久津さんも既婚者とやいのやいの言われても困っちゃうから」
入社4年目の間宮は何か察しているのか、阿久津と星の話題には乗らない。
「え! 既婚者……そうなんですね。すみません、阿久津さん」
絶句する花澤。
「いやいや、びっくりだよね。既婚者とは思えないほど女性と距離感が近いというか何というか。仕事はできる人だから尊敬してるんだけどね」
少々気まずくなったところで、エレベーターがエントランスに着いた。
「それじゃ、楽しんできて」
阿久津は2人に別れを告げて、家路もとい同じビルの関係者用エレベーターの方へ向かおうとした。
「あれっ、今日は阿久津さんそっちなんですね」
去年よく一瞬に帰っていた花澤が驚いて言った。最寄り駅に行くなら花澤たちと同じ反対側の道だ。
「あーそうなんだよね! 最近ちょっと仕事帰りにスーパー寄って帰るからこっちなんだ」
下手な言い訳かも、と思ったが花澤と間宮は信じた。
「えっ凄い! この辺のスーパーって昭和屋とかですよね?」
「セレブ御用達じゃないですか。阿久津さん一体何買ってるんです?」
2人とも、阿久津は未だ埼玉のアパートに住んでいると思っているし、まさかオフィスのビルの47階によく知らない男と住んでいるとは思いもよらないだろう。
「いやいや、うちの近くのスーパーちっちゃいから欲しいもの売ってなかったりするんだよね。ちょっとマニアックなスパイスとか。だからそういうのだけ買ってくの」
「へえ〜すごい。じゃあ結構阿久津さんって料理するんですね」
「ま、まあね」
無駄な嘘までつく羽目になってしまった。
「それじゃあ、お疲れ様で〜す」
元気よく挨拶する2人に手を振り、今度こそ別れた。ああ、ドッと疲れた。早く家に帰りたい。
しかし、宣言してしまった手前、スーパーに寄らないのも何となく気持ち悪い。実際問題、今夜の夕飯は何かしら用意しないといけないし。致し方ない、こうなったら……
「本当に昭和屋に寄ってくか……」
阿久津はキラキラした高級スーパーの自動ドアをくぐった。
「これ、人事課に提出する書類持ってきたんだけどどこに出せば良い?」
「ええと、見ても大丈夫ですか?」
「うん。もちろん」
見ると、配偶者の扶養関係の書類で、星の妻の名前が書いてあるのが見えた。阿久津はすぐに書類から目を離して答えた。
「……扶養関係ですね。それなら共済の山田さんです」
「あ〜山ちゃんか、ありがとう!」
いえとんでもない、と言って阿久津は書類を渡してまたパソコンに目を落とそうとした。だが、星はまだ阿久津に用があるのかそのまま居座って話しかけ続ける。
「どうだった? 例の48階の件は」
なるほど、本題はこれか。48階、すなわち社長室がある階。ずばり星は阿久津が社長に呼び出された案件について聞きたいのだ。そもそも阿久津と同じ人事にいた経験もあり、社内で顔も広い星が提出書類の担当者を知らないはずがない。あくまで扶養の書類は話すきっかけで、社長の情報を少しでも知りたいのだろう。出世意欲の強い星らしいと思った。
「……ああ、あの件ですか。大した話ではありませんでしたよ」
周囲の人に聞こえても良いようにぼかして答える阿久津。そもそもこんな社長一家のプライベートな話、星にも絶対に言えない。
「へえ。あの方、すごく多忙なのに。そんな大したことない用事で呼び出す?」
星は冗談めかして食い下がる。
「最近の若手の傾向とか、うちの課の教育方針について知りたかったようなので私を呼んだそうです。私が長年新人教育の担当なので」
「ほ〜! なるほどね! 凄いじゃん阿久津!」
星は信じたのか信じていないのか分からないが、大袈裟に笑顔になって阿久津の肩をポンポンと叩いた。出た、また気軽なボディタッチ。
「後でその話聞かせてよ。最近の阿久津のこともさ。久々に美味い酒でも飲みながら」
「あ〜、良いですね。星さんの奥様の許可が下りればですけど」
「大丈夫大丈夫。うちは寛容だから。じゃ、後でチャットする」
ヒラヒラと手を振って、星は軽快に去っていった。
嵐が過ぎた、とばかりに阿久津は安堵のため息を漏らす。そもそも相手が星だろうと誰だろうと、阿久津は学の件について話すつもりは無かった。本件を阿久津に依頼してきた山下課長にも阿久津は同様の建前上の話をしており、阿久津はこれからも時々、社長から新人教育についてヒアリングを受ける、という体でオフィスを抜ける許可を得ている。オフィスを抜けて何をするのか。本当の業務内容はもちろん、学の社会復帰の手伝いである。
とはいえ、何をしようか。今の学に色々と接触を試みようと、心を閉ざしているうちはうまくいかない気がする。きっと今までたくさんの業者やボランティアが同じようなことをやったはずだ。で、あれば阿久津は……
◇◇◇
「わっ、阿久津さんお疲れ様です!」
定時ピッタリに席を立ち、退社のためにエレベーター待ちしていたところ、後輩の間宮 正吾《まみや しょうご》と花澤 美月《はなざわ みつき》にばったりと会った。間宮は3年前、花澤は去年、阿久津が新人教育についた若手だ。
「花澤さん、間宮くん! 2人も今帰り?」
「はい! この後軽く飲みに行こうと思って」
間宮の声はとても高揚している。同じ部署に異動してきた華やかで可愛い花澤と飲みに行けることが嬉しくてたまらないのだろう。
「おお〜月曜から元気で良いね! 楽しんできて!」
「阿久津さんもどうです? 予約はしてないんで、人数増えても大丈夫です! 女子トーク、しませんか⁈」
阿久津が2人を気持ちよく送り出そうとすると、花澤が呼び止めてくる。ちょっとだけ残念そうな顔をする間宮。分かってる、分かってる。ここは空気を読むところだ。
「あーごめん。今日はちょっと……また改めて連絡する!」
間宮がこちらに感謝のアイコンタクトを送っているのを感じた。可愛い後輩のアシストをするのも先輩の仕事だ。まあ、花澤は間宮をどう思ってるのか分からないが、2人で飲みにいくのを嫌がらないならとりあえず若い2人で行ってみたらいい。まず、今日は阿久津にもやらなければいけないことがある。
「残念! それなら下まで一緒に行きましょう」
間宮と阿久津の無言のやりとりに気づいていない様子の花澤はなおも阿久津を離さない。
「そうは言うけど、花澤さんとは先週も飲んだばっかだよね? もはや新しい話題も無いよ」
阿久津が笑いながら言うと、花澤は意味ありげに微笑んだ。
「あるでしょう、阿久津さん。この花澤の目は誤魔化せませんよ〜」
「えっ」
一瞬ぎくりとした。もしかして、社長に呼ばれたところを花澤にも見られたか? 学の件を何か知っている?
「何のことかなあ?」
「分かってるくせに! あのエネルギー部門のイケメンのことですよ」
なんだ星さんのことか。1番隠したかった事はバレていなかったので一安心。
「今日、人事課の前通りがかったら阿久津さんとそのイケメンが話してて、ただならぬ距離感だったんです! 前も私、その人と阿久津さんが一緒にいるのを見かけて」
「いやいや、一緒にいるだけだろう?」
「でも! 雰囲気が何かありそうな感じだったんです」
「何だよそれ」
何も知らずにはしゃぐ花澤と、それを少し諌める間宮。
「あー、星さんはほら、女性に対しては誰にでもああいう感じだから。花澤さんも気を付けなね」
阿久津は軽く笑って受け流した。事実、星はとんでもないプレイボーイで、おそらく社内の各課にお気に入りの女性がいるのではないのだろうか。その整った容姿と押しの強さのおかげで、女性側も強く拒否はしない。実際、星の独身時代は社内でも何人もの女性が彼と噂になった。阿久津は、噂にもならなかった有象無象の1人である。もちろん噂にならないに越したことはないのだが。
「星さんはさ、ああ見えて既婚者だから。阿久津さんも既婚者とやいのやいの言われても困っちゃうから」
入社4年目の間宮は何か察しているのか、阿久津と星の話題には乗らない。
「え! 既婚者……そうなんですね。すみません、阿久津さん」
絶句する花澤。
「いやいや、びっくりだよね。既婚者とは思えないほど女性と距離感が近いというか何というか。仕事はできる人だから尊敬してるんだけどね」
少々気まずくなったところで、エレベーターがエントランスに着いた。
「それじゃ、楽しんできて」
阿久津は2人に別れを告げて、家路もとい同じビルの関係者用エレベーターの方へ向かおうとした。
「あれっ、今日は阿久津さんそっちなんですね」
去年よく一瞬に帰っていた花澤が驚いて言った。最寄り駅に行くなら花澤たちと同じ反対側の道だ。
「あーそうなんだよね! 最近ちょっと仕事帰りにスーパー寄って帰るからこっちなんだ」
下手な言い訳かも、と思ったが花澤と間宮は信じた。
「えっ凄い! この辺のスーパーって昭和屋とかですよね?」
「セレブ御用達じゃないですか。阿久津さん一体何買ってるんです?」
2人とも、阿久津は未だ埼玉のアパートに住んでいると思っているし、まさかオフィスのビルの47階によく知らない男と住んでいるとは思いもよらないだろう。
「いやいや、うちの近くのスーパーちっちゃいから欲しいもの売ってなかったりするんだよね。ちょっとマニアックなスパイスとか。だからそういうのだけ買ってくの」
「へえ〜すごい。じゃあ結構阿久津さんって料理するんですね」
「ま、まあね」
無駄な嘘までつく羽目になってしまった。
「それじゃあ、お疲れ様で〜す」
元気よく挨拶する2人に手を振り、今度こそ別れた。ああ、ドッと疲れた。早く家に帰りたい。
しかし、宣言してしまった手前、スーパーに寄らないのも何となく気持ち悪い。実際問題、今夜の夕飯は何かしら用意しないといけないし。致し方ない、こうなったら……
「本当に昭和屋に寄ってくか……」
阿久津はキラキラした高級スーパーの自動ドアをくぐった。